指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

バックパックにはいつでも栓抜きが入っている。

 「風の歌を聴け」の「僕」なら眉をひそめるかも知れないけどグラスに注がず口飲みで飲むなら缶ビールより瓶ビールの方がおいしいと家人も僕も思っていて、気の向いたときにいつでも瓶ビールを買って公園なんかで飲めるようにバックパックには栓抜きが入っている。昔の悪役レスラーがパンツに栓抜きを隠してるみたいに。でも栓を抜くのに使う部分以外はプラスティックでコーティングされているのでたぶん凶器としてはあまり役に立たない。今日は駅前のスーパーでおいしいサンドイッチを買ってビールの銘柄がたくさん揃っているもうひとつ別のスーパーで瓶ビールを買って公園で食べたり飲んだりした。家人はカールスバーグ、僕はハイネケン。どちらもとてもおいしいビールだと思う。カールスバーグは渋谷の立ち食いピザ屋CONAのデフォルトのビールだったので味を覚えた。今この店ではカールスバーグではなくキリンのハートランドがデフォルトになってると思う。ちょっと甘いけどハートランドも悪くない。ハイネケンは独特の臭みがとてもいい。若い頃は苦手だったけど今は気に入ってよく飲む。いつでも瓶ビールを買って、とさっき書いたけど戸外で気持ちよくビールが飲める季節というのは実はそう長くない。寒い時期はもちろん適さないし暑いとビールもぬるくなってしまうし公園によっては蚊が出たりでうちで飲んだ方が快適だ。だからお花見が終わった頃から初夏までと、秋口の二回、かなり短い時期に限られる。今東京は戸外が最も気持ちいいときだと思う。生き生きした新緑の美しさを眺めながらゆっくりと瓶を傾ける。せいぜい30分くらいの楽しみなんだけど季節を惜しむように梅雨が来るまで何度か繰り返すことになる。

大幅減収。

 今年になってから生徒さんが結構辞めた。一月にふたり辞めたんだけどこのうちひとりは推薦で進学が決まったからで仕方ないし想定済みだった。二月にもふたり辞めたけどそのうちひとりは一月同様進学が決まったからなのでこれも織り込み済みだった。まったく想定していなかったのは先月いっぱいで四人が辞めたことだ。きっかけは二月に塾で学力テストをしたことで揃いも揃ってものすごくひどい成績だった。まさかこれほどわかってないとは思ってなかった。塾としてはこれでは辞められても仕方ない。計八人辞めて減収は月収でなんと20万円弱。一時はかなりやばいところまで追い詰められたんだけど驚いたことにすぐにつぶれる兆しはない。わずかながら新たに入って来てくれる生徒さんがいたこと、前にも書いたように年度が替わってたいていの生徒さんの受講料が上がること、春期講習会を企画したら予想外に多い人数が申し込んでくれたこと、家人が新たに原稿料を得たことがその理由だ。辞めた生徒さんの中にはいろいろな意味で忘れがたい子もいたけどそれはもう仕方がない。同じ学力テストを受けて割とひどい成績だったにも関わらず春期講習会にも参加しうちに着いてきてくれることを決めた生徒さんもいる。そういう生徒さんに勇気づけられながらとにかく前を向いて進んで行く。でももう学力テストは二度とやらないつもり。

進級できるか。

 高一で一教科単位を落とした子供は高二でもう一教科落とすと進級できないことになっていた。三学期の期末考査が終わってまだ進級のための先生たちの会議は行われてないものの担任からは一応大丈夫らしいと話があったそうだ。進級できないと高二をもう一度やるのではなく放校になってしまうそうでそれだけは避けたかった。下駄を履いてみなければわからないけど何とかなっていたらいいと思う。

全篇本邦初訳。

 

橋の上の天使

橋の上の天使

 

  奥付を見るとこの本の初版が出たのは1992年6月となっている。底本はKnopf版の「The Stories of John Cheever」で先日触れた村上春樹さん訳「巨大なラジオ/泳ぐ人」と同じだ。二冊では「さよなら、弟」あるいは「ぼくの弟」のみかぶってるとこの前書いたけど読んでみたらもう一編川本三郎さん訳では「父との再会」、村上さん訳では「再会」というタイトルの作品がかぶっていた。なので川本さんの15編プラス村上さんの18編マイナスかぶった2編ということで、二冊で31編の短編あるいはエッセイを読むことができる。これは底本の61編のほぼ半分に当たる。訳者川本さんはおそらく初訳ということにこだわって作品選びをしているのですでに翻訳されたことのあるものはあえて収録しなかったということらしい。村上さんは代表作も訳しているのでそれが二冊の味わいの違いをつくっている。良い悪いの問題ではなく川本さんの本は全般的に地味目な印象を与え村上さんの本の方が印象は派手になる。それは後者が代表作という振れ幅の大きい作品を含んでいることから来ている。もうひとつあるとすればうまく言えないんだけど川本さんの本の方が作者のいろいろな面を幅広く感じさせてくれる気がする。バラエティーに富んでいる。それに比べると村上さんの本は印象の似た作品が収録されており統一感があるように思われる。だからなんだと言われるとだから二冊とも読んでみたらということになる。いつの日か61編すべてを翻訳で読むことができるといいと思った。

二度目の五百円玉貯金。

 今月は何かと物入りなのでしばらく前からよく覚えてないけどたぶん一年くらい続けていた五百円玉貯金を使おうと思って数えたらちょうど二百枚貯まっていた。十万円。三、四万あれば足りるし、もしかして五、六万になっていたらすごくうれしいと思っていたのを大幅に上回った。授業料でもらった五百円玉を全部と買い物のときのものを折に触れて貯めていただけなんだけど結構貯まるもんだな。半分の五万円だけ使って残りは貯金を続ける。

突破口。

 

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

ピアノ・レッスン (新潮クレスト・ブックス)

 

  「巨大なラジオ/泳ぐ人」を買ったとき隣に積んであったので思わず一緒に購入してしまった一冊。アリス・マンローという名前は知っていたけどどういう人かは知らずもちろん作品を読んだこともなかった。新潮クレスト・ブックスを買ったというのも二十何年ぶりなんじゃないかと思う。ベルンハルト・シュリンクの「朗読者」以来か?ちなみに表題作はジェーン・カンピオン監督、マイケル・ナイマン音楽の映画「ピアノ・レッスン」とはまったく無関係。余談だけどこの映画はとても好きな一本でサントラのCDも持っている。メインテーマを頭の中に思い浮かべることもできる。
 うまく言えないんだけどところどころに不思議なことが書いてある短編集だ。絶対に体験したことがない感じ方なのにいつかどこかで感じたことがあるような既視感のようなものを覚える。作者と言うかもう少し正確に言うなら語り手はそれを確かに知っている。そしてそれを読む自分も知っているはずがないそれを確かに知っているような気がする。それは語り手と自分の間だけで成り立つ共犯関係のような感覚だ。そして不思議なことにその共犯関係を通路にして自分はどこか遠いところに連れて行かれるように感じられる。誤解を恐れずに言うならそれはどこか別の世界への突破口のようなものなのかも知れない。語り手に共感することを通して壁の向こうの自由でよろこびに満ちた何かに指先が一瞬届くような。その得も言われぬ感触は、この作者独自のもののように思われた。ほんとにうまく言えてないんだけどまあそんな感じ。

個人的ジョン・チーヴァー、その後。

 村上春樹さんによると川本三郎さんの訳されたジョン・チーヴァーの短編集「橋の上の天使」と村上さんの「巨大なラジオ/泳ぐ人」では「Goodbye, My Brother」という一編だけがダブっているそうだ。邦題は前者では「さよなら、弟」、後者では「ぼくの弟」となっている。なぜこの一編だけがダブったのかあるいは逆になぜこの一編しかダブらなかったのかは村上さんの文章に譲るとして「橋の上の天使」が刊行された段階で「さよなら、弟」を読んでいたはずなのに先日「ぼくの弟」を読んだときには全く読んだ覚えがなかった。訳文が多少違うからと言っても同じテキストの翻訳を読んでいてしかも全く読んだ覚えがないというのは我ながらおかしい気がした。もしかしたら橋本さんのチーヴァーは買っただけで読んでなかったんだろうか。そう疑われた。
 割合は正確にはわからないけど買った本のうちいくらかは読んでいないものがある。若い頃は読んでない本というのはかなり正確に覚えていたんだけど年を取ってだんだんあいまいになって来ている。「橋の上の天使」は頭の中では読んだ本に分類されていたけどもしかしたら思い違いなのかも知れなかった。
 どちらにしても村上さんの訳を除けば持っている唯一のチーヴァーの訳本なので読みたいと思い、幸い本棚の比較的取り出しやすいところに背表紙が見えていたのでちょっと苦労して取り出して丁寧にほこりを払った。そのとき気づいたんだけど本についている細いリボン状のしおりの先がばらけないように結んであった。今は面倒なのでやらないけど一時期本のしおりの先を結ぶ習慣があった。それは前述の通り先がほどけてばらけることを防ぐためと、確かにその本を読んだことを証すためとのふたつの理由を持った行いだった。なのでこの本を読んだことはほぼ間違いないと思われた。四半世紀ちょっとの時間が読んだことを完全に忘れさせただけだった。

不吉な予感。

 

巨大なラジオ / 泳ぐ人

巨大なラジオ / 泳ぐ人

 

  ちょっと前のことになるけど村上春樹さんの訳されたチーヴァーのこの短編集を読み終えた。収録されている短編十八編とエッセイ二編のうち表題作の二編に最も惹かれた。リアリズムに見えるのにいつの間にかそうではない不可思議な世界へ踏み込んで行ってしまうこの手の作品が個人的にもともと大好物なのだ。ただそういうスーパーナチュラルな感触でこの作家を特徴付けてしまうのは間違いな気がする。ふたつの表題作はたまたまそういう作品だったというだけのことだと考えた方がいい。それよりもどの作品にも共通しているのはある種の不吉な予感とでも言うべきものになる。主人公たちは多かれ少なかれ現状からより暗い方向へと転がり落ちて行く。落差がそれほど大きく見えない場合でも、決定的に、運命的に、不可逆的に。訳者はそうしたストーリーを展開する作者の腕の確かさを最も高く評価しているようだ。もうひとつ個人的な興味に引き寄せて言うと妻が夫を拒む描写に非常にリアルなものを感じて共感と恐怖を同時に抱いた。それはけんかしたときに家人が僕を否定する否定のしかたに酷似している。その拒み方には何かとても普遍的なものが感じられる。ひとたびそうなってしまうと男の側にできることなど何も無いように思われる。

疲れの理由。

 ずーっと疲れてる。今の塾の仕事は夏期講習などがない時期なら日に長くて六時間で週六日なので一週三十六時間弱に過ぎない。勤め人が九時五時で働くとして週休二日なら一週四十時間労働なのでそれよりもやや少ない。もっともそれは授業だけの話で他にも雑事をこなしているのでまあ大体残業が全く無い勤め人と同じくらいの労働時間になるかも知れない。時間としては決して長い方ではないだろう。ただそれにしては疲れすぎてる気がする。たとえば正月などで何日か休めてもまるで疲れがとれない。その理由なんだけどバイトしてた頃の疲れがまとめて残ってるんじゃないかと苦し紛れに考えたりする。清掃のバイトの頃は朝六時過ぎくらいから一時間半の昼食と移動時間を除いて夜九時半くらいまで十五時間半拘束の十四時間労働がなんと週六日だった。ただこのブログによるとそれも2015年の三月まででそれ以降はバイトを午前中だけにしてもらって三時間勤務時間が減っている。また同時期の2015年の六月頃から翌2016年の三月まで清掃のバイトを週五日に減らしてもらい、不定期に土曜日に中学校の補習授業を行うバイトにも行った。これは時給はよかったけど移動時間が長くて結構大変だった。清掃の方は2016年の七月半ばまで続け夏休みは夏期講習と時間帯がかぶったためバイトを休みそのまま辞めてしまっている。塾だけで暮らせるようになったかと思いきやまだそれは無理で、翌2017年の一月か二月にスーパーのバイトを週三回で始めた。これも拘束時間が五時間半くらいあったので週に三日は十時間以上の労働になった。最後の方は一日三時間に減らしてもらっていたけど結局昨年2018年の五月いっぱいで辞めている。プラス2017年の夏くらいから年末にかけて土曜日ないし日曜日にカテキョのバイトもして一時は週休0日でかなりつらかった。と、考えてみれば時期によってはやや無茶な働き方をしていたことになる。この数年間の疲れがまだ残ってるというのが言い分なんだけどいくらなんでもそれはちょっと無理だろうか。家人の原稿料と塾からの収入だけで生計を立てられるようになって丸八ヶ月が経とうとしている。仕事してる時間があまりに短くてときどきなんだか後ろめたい。でもそれとは別にとにかくずーっと疲れている。

借金が終わる。

 今年の六月で借金が返し終わるんだけど六月までに返済する金額と同額の貯金がすでにできている。今月分の収入からは借金の返済のことは考えに入れなくてよくなった訳でそれはだいぶ肩の荷が下りた感を与える。この時期受験が終わった生徒さんが一定量辞めるので一時的に収入が減るんだけど新学期になると進級した生徒さんの授業の回数が増えたり、小学生から中学生になって英語の授業が加わったりしてわずかながらもたいていの生徒さんの受講料が上がるので全体としては結構な増収となる上に返済もなくなるので見通しは明るいような気がする。気がする、と言うのは実際にその時期になってみないとわからないからで新学期で辞めてしまう生徒さんというのもある程度覚悟しておかなければならない。この仕事も七年目を迎えるけど不確定要素というのはいつまで経ってもついて回る。まあそれが自営ということなので仕方ないと言えば言える。

 借金をしている信用金庫の通帳を見ると返済が引き落としになるほんの数日前にその月の返済額を入金している月が何ヶ月も続いている。引き落としになると残高は数百円になりそれが翌月の引き落とし直前にまた入金するまでそのままだ。毎月返済額を入金すると、ああ今月も無事返すことができたと小さなため息をつき続けた五年間だった。そのときはなんとも思ってなかったけど今から思うとやはりきつい五年間だったような気がする。

確定申告の準備が大体終わった。

 毎年新年になると気にかかってくるのが確定申告の準備だ。3月15日までに提出しなければならないんだけど、3月は年度替わり直前で生徒さんの学年が変わるのに対応しなければならず何かと忙しい。場合によっては春期講習の用意もある。それでできるだけ早い段階から取りかかりたいんだけど正直面倒で重い腰が上がらない。うちでは「やよいの青色申告」を使っていてだから何もソフトを使わないよりはずっと楽なはずなんだけどそれでも気が重い。それに年一回の使用だとソフトにも慣れない。どうやるんだったっけというところから毎年始めることになる。でも今年はどういう訳か割と早い段階で作業に取りかかる決心がついた。まずは昨年一年分の領収書やレシートを日付毎に一ヶ月単位でまとめる。その方が打ち込むのに便利だからだ。それから一枚一枚の日付と金額と項目を打ち込んで行く。うちの場合だと消耗品費と雑費でほとんどの買い物を区分けできてしまう。電話代は通信費、電気代、水道代は水道光熱費、ガスは使わないので開栓してもらってない。あとは交通費くらいか。それから毎月の収入を生徒さん毎に一件一件打ち込む。それを全部入力し終わるとだいぶ気が楽になる。各種控除の入力は申告書Bに直に打ち込むのでここからインターフェイスが変わる。生命保険と健康保険。配偶者(特別)控除には家人に送られて来た支払い調書の金額を合算して入力する。それから本業以外の収入(5月までバイトの収入があったので。)も入力。借金の返済は、ちょっとよくわからないんだけど借りた年に借りた額をどこかに入力し、そうしてあると毎月の返済額を入力できるらしいんだけど(いや、これも全然間違ってるかも知れない。)、借りた年によくわからなくて何もしていないので帳簿上借金の話はなかったことにしている。借りた額を返した額が下回るということは考えられないので別に悪いことをしてるとは思ってないけど区から利子の支払いの補助をもらってることもありそれも考えに入れると余計に話がややこしくなるのでできればこのままなかったことにしておけるといいなと思っている。あとは控除に必要な書類と本業以外からの収入を示す書類、それからマイナンバーカードのコピーを台紙に貼り、必要な書類を「やよいの青色申告」からプリントアウトして家族三人のマイナンバーを記入すればおしまい。家人の支払い調書で未着のがあるためそこまで行かずにストップしている。

ビジネス文書の書き方。

ビジネス文書の書き方というのを正式に習ったことはないけどそれでも二十年以上会社勤めをしていたのでそこそこまともな文書が書けると思っている。おそらく長い間にはウェブなどで適切な書き方を調べたこともあったんじゃないかと(覚えてないけど)思う。それは家人も認めるところでたとえば出版社とのやりとりのメールなんかは自分では書けないから書いてくれと言うので代書している。文というのは心を込めて書くとある程度は心のこもったものになるので相手に感じよく思ってもらうためにはやはり丁寧に書いた方がいい気がする。話は変わるけど塾で保護者の方たちによくメールを書く。塾のスケジュールやら生徒さんが病欠する知らせに対するお見舞いやら遅れている授業料の催促やらいろいろだ。メールの場合は挨拶は簡単に済ませ、もしくは挨拶抜きでいきなり用件だけ書けばいいという考え方もあるらしい。実際そういう保護者の方もいるけど個人的にはそういうことができない。かなりきちんとした前置きを書くし用件も結びも割とかっちりしている。客商売だからということももちろんあるんだけどちょっとだけ偉そうに言うと文章を書くことに対する倫理的な態度とでも言うべきものをあまり崩したくないのだと思う。もうひとつ文章というのは相手との距離の取り方という面を含んでいるので丁寧に書くことによって相手との距離を遠くしておきたいという思いもあるようだ。もちろん慇懃無礼になるのはまずいけどとりあえずこの書き方で誰かとトラブルになったことはこれまで一度もない。

ジョン・チーヴァーをめぐる個人的考古学的考察。

橋の上の天使

橋の上の天使

ジョン・チーヴァーという作家の名を知ったのは村上春樹さんのエッセイでだったと思っていた。安西水丸さんの挿絵がついた本だった記憶があるので初め「ランゲルハンス島の午後」かと思って書架の割と取り出しやすい場所に文庫版の背表紙が見えていたので取り出してほこりを払って読み直してみた。すぐにその本ではないことがわかった。かすかに記憶にある文章と文体が異なっていたからだ。「ランゲルハンス島・・・」はかなりかっちりしたエッセイの集まりで一編一編の字数もほぼ揃っているし構成に統一感がある。もっと緩い感じのエッセイ集だった気がした。それで幸いこれも背表紙の見えていた文庫版の「象工場のハッピーエンド」を取り出して読み返すと確かに「チーヴァー」について触れらた箇所が見つかった。ただしそれは「チーヴァー」であって「ジョン・チーヴァー」ではなかった。でもこの随分前に出版された短編集を買ったとき、作者のフル・ネームとプラスして短編の名手だということを確かに知っていた。それが村上さんの評価でなかったとしたらこの本を買う動機がなかっただろう。いや、それが間違いなのかも知れない。他の方の評価を読んでいたのかも知れない。僕が読む作家の方で他にチーヴァーに触れる可能性があるのは高橋源一郎さんくらいだろうか。高橋さん推しならおそらく買うだろう。今のところこの考察はここまでしか進めることができない。
村上さん訳のチーヴァーの短編集が出てその前書きにこの本のことが触れられている。読みやすい優れた訳なので合わせて読むことが勧められている。ところが例によって読んだ覚えが全然ない。村上さん訳を読み終えたらこの本も読み直してみようと思っている。

「雑」とは何か。

「雑」の思想 : 世界の複雑さを愛するために

「雑」の思想 : 世界の複雑さを愛するために

「雑」であることの価値が様々なアプローチから考え込まれている。簡単に言えば「雑」とはある強固なシステムに取り込まれないものの総体と言っていいように思われた。その強固なシステムとは、たとえば経済学で言えば「等価交換」という原理だ。本書を読むとこの市場原理が自分の心の奥底にまで深く浸透してしまっていることに気づかされる。対価を支払って物を買う、働くことによって対価を得る。それが等価交換であるならそこから抜け出すことなど可能なのだろうか。
可能だ、というのが本書のおふたりの結論だ。たとえば十字架に磔にされたイエス・キリスト、彼がそうされたのは自分の罪でなく人々の罪を背負ったからだった。そこにはイエスから全人類への愛の「贈与」がある。キリスト教が世界性を獲得して行くにつれその「贈与」の部分が忘れ去られ、マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で発見したようにキリスト教と資本主義は歩調を合わせ、従ってキリスト教でさえ「等価交換」の思考法にとらわれて行く。でももともとの神の愛は「贈与」でありそれは「等価交換」のシステムからはみ出した「雑」なるものの例なのだと。
こうした議論はしばしば「雑」と非「雑」の二元論となってしまい、我田引水に過ぎる展開に陥りやすいと思うんだけど本当はどうなのかという判断は高橋さんの新作を待ちたい。僕は連載は読まないので単行本になるのを待つと数年先になるらしいけど。

四部作全部読めるだろうか。

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

たいていの本は一度読み始めたら最後まで読むけどこの本は昨年の11月に読み始めてから何日かして最終章の前で読むのをやめてしまった。それから一ヶ月以上のブランクがあった。それはブランクと言うよりも他のどんな本も読めないスランプと言ってよかった。好調を維持していたのにある投手と対戦した直後突如打てなくなる打者というのがたまにいるけどそんな感じだ。それまでの調子良さをすっかり崩されてしまった。その間に自分にとっての「ご馳走」本も出版されたんだけど買うだけ買って読めなかった。どんな大好物を前にしてもおなかが空いた気がしない。かなりの重傷と言えた。それでしばらく悶々としてたんだけど今日になってふとあと何ページ残ってるんだろうと気になった。確かめてみたら30ページちょっとだとわかった。それで最後まで読んでみる気になった。登場人物の何人かはどんな人だったか忘れていたけど構わずとにかく最後まで読み通した。
物語が時系列に進まない小説というのは別に珍しくない。好きなガルシア=マルケスの作品にもそういうタイプのものがある。ただし本作の場合は物語が時系列でないだけでなく、しばしば主観的かつ内省的過ぎて描写の意味がわからないという状況が訪れるようにできている。ここまでディープに個人的な感受性の世界を切り開かれてもとても着いて行けない。それが正直な感想ということになった。それで「解説」を読んでとても納得した。要するにそういう風に書いてある訳だ。四部作の第一作なのであと三作どうせなら読んでみたいけど読めるかどうか自信がない。とりあえず買ってある大好物を読んでから改めて考えてみたい。