指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

確定申告の準備が大体終わった。

 毎年新年になると気にかかってくるのが確定申告の準備だ。3月15日までに提出しなければならないんだけど、3月は年度替わり直前で生徒さんの学年が変わるのに対応しなければならず何かと忙しい。場合によっては春期講習の用意もある。それでできるだけ早い段階から取りかかりたいんだけど正直面倒で重い腰が上がらない。うちでは「やよいの青色申告」を使っていてだから何もソフトを使わないよりはずっと楽なはずなんだけどそれでも気が重い。それに年一回の使用だとソフトにも慣れない。どうやるんだったっけというところから毎年始めることになる。でも今年はどういう訳か割と早い段階で作業に取りかかる決心がついた。まずは昨年一年分の領収書やレシートを日付毎に一ヶ月単位でまとめる。その方が打ち込むのに便利だからだ。それから一枚一枚の日付と金額と項目を打ち込んで行く。うちの場合だと消耗品費と雑費でほとんどの買い物を区分けできてしまう。電話代は通信費、電気代、水道代は水道光熱費、ガスは使わないので開栓してもらってない。あとは交通費くらいか。それから毎月の収入を生徒さん毎に一件一件打ち込む。それを全部入力し終わるとだいぶ気が楽になる。各種控除の入力は申告書Bに直に打ち込むのでここからインターフェイスが変わる。生命保険と健康保険。配偶者(特別)控除には家人に送られて来た支払い調書の金額を合算して入力する。それから本業以外の収入(5月までバイトの収入があったので。)も入力。借金の返済は、ちょっとよくわからないんだけど借りた年に借りた額をどこかに入力し、そうしてあると毎月の返済額を入力できるらしいんだけど(いや、これも全然間違ってるかも知れない。)、借りた年によくわからなくて何もしていないので帳簿上借金の話はなかったことにしている。借りた額を返した額が下回るということは考えられないので別に悪いことをしてるとは思ってないけど区から利子の支払いの補助をもらってることもありそれも考えに入れると余計に話がややこしくなるのでできればこのままなかったことにしておけるといいなと思っている。あとは控除に必要な書類と本業以外からの収入を示す書類、それからマイナンバーカードのコピーを台紙に貼り、必要な書類を「やよいの青色申告」からプリントアウトして家族三人のマイナンバーを記入すればおしまい。家人の支払い調書で未着のがあるためそこまで行かずにストップしている。

ビジネス文書の書き方。

ビジネス文書の書き方というのを正式に習ったことはないけどそれでも二十年以上会社勤めをしていたのでそこそこまともな文書が書けると思っている。おそらく長い間にはウェブなどで適切な書き方を調べたこともあったんじゃないかと(覚えてないけど)思う。それは家人も認めるところでたとえば出版社とのやりとりのメールなんかは自分では書けないから書いてくれと言うので代書している。文というのは心を込めて書くとある程度は心のこもったものになるので相手に感じよく思ってもらうためにはやはり丁寧に書いた方がいい気がする。話は変わるけど塾で保護者の方たちによくメールを書く。塾のスケジュールやら生徒さんが病欠する知らせに対するお見舞いやら遅れている授業料の催促やらいろいろだ。メールの場合は挨拶は簡単に済ませ、もしくは挨拶抜きでいきなり用件だけ書けばいいという考え方もあるらしい。実際そういう保護者の方もいるけど個人的にはそういうことができない。かなりきちんとした前置きを書くし用件も結びも割とかっちりしている。客商売だからということももちろんあるんだけどちょっとだけ偉そうに言うと文章を書くことに対する倫理的な態度とでも言うべきものをあまり崩したくないのだと思う。もうひとつ文章というのは相手との距離の取り方という面を含んでいるので丁寧に書くことによって相手との距離を遠くしておきたいという思いもあるようだ。もちろん慇懃無礼になるのはまずいけどとりあえずこの書き方で誰かとトラブルになったことはこれまで一度もない。

ジョン・チーヴァーをめぐる個人的考古学的考察。

橋の上の天使

橋の上の天使

ジョン・チーヴァーという作家の名を知ったのは村上春樹さんのエッセイでだったと思っていた。安西水丸さんの挿絵がついた本だった記憶があるので初め「ランゲルハンス島の午後」かと思って書架の割と取り出しやすい場所に文庫版の背表紙が見えていたので取り出してほこりを払って読み直してみた。すぐにその本ではないことがわかった。かすかに記憶にある文章と文体が異なっていたからだ。「ランゲルハンス島・・・」はかなりかっちりしたエッセイの集まりで一編一編の字数もほぼ揃っているし構成に統一感がある。もっと緩い感じのエッセイ集だった気がした。それで幸いこれも背表紙の見えていた文庫版の「象工場のハッピーエンド」を取り出して読み返すと確かに「チーヴァー」について触れらた箇所が見つかった。ただしそれは「チーヴァー」であって「ジョン・チーヴァー」ではなかった。でもこの随分前に出版された短編集を買ったとき、作者のフル・ネームとプラスして短編の名手だということを確かに知っていた。それが村上さんの評価でなかったとしたらこの本を買う動機がなかっただろう。いや、それが間違いなのかも知れない。他の方の評価を読んでいたのかも知れない。僕が読む作家の方で他にチーヴァーに触れる可能性があるのは高橋源一郎さんくらいだろうか。高橋さん推しならおそらく買うだろう。今のところこの考察はここまでしか進めることができない。
村上さん訳のチーヴァーの短編集が出てその前書きにこの本のことが触れられている。読みやすい優れた訳なので合わせて読むことが勧められている。ところが例によって読んだ覚えが全然ない。村上さん訳を読み終えたらこの本も読み直してみようと思っている。

「雑」とは何か。

「雑」の思想 : 世界の複雑さを愛するために

「雑」の思想 : 世界の複雑さを愛するために

「雑」であることの価値が様々なアプローチから考え込まれている。簡単に言えば「雑」とはある強固なシステムに取り込まれないものの総体と言っていいように思われた。その強固なシステムとは、たとえば経済学で言えば「等価交換」という原理だ。本書を読むとこの市場原理が自分の心の奥底にまで深く浸透してしまっていることに気づかされる。対価を支払って物を買う、働くことによって対価を得る。それが等価交換であるならそこから抜け出すことなど可能なのだろうか。
可能だ、というのが本書のおふたりの結論だ。たとえば十字架に磔にされたイエス・キリスト、彼がそうされたのは自分の罪でなく人々の罪を背負ったからだった。そこにはイエスから全人類への愛の「贈与」がある。キリスト教が世界性を獲得して行くにつれその「贈与」の部分が忘れ去られ、マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で発見したようにキリスト教と資本主義は歩調を合わせ、従ってキリスト教でさえ「等価交換」の思考法にとらわれて行く。でももともとの神の愛は「贈与」でありそれは「等価交換」のシステムからはみ出した「雑」なるものの例なのだと。
こうした議論はしばしば「雑」と非「雑」の二元論となってしまい、我田引水に過ぎる展開に陥りやすいと思うんだけど本当はどうなのかという判断は高橋さんの新作を待ちたい。僕は連載は読まないので単行本になるのを待つと数年先になるらしいけど。

四部作全部読めるだろうか。

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

アレクサンドリア四重奏 1 ジュスティーヌ

たいていの本は一度読み始めたら最後まで読むけどこの本は昨年の11月に読み始めてから何日かして最終章の前で読むのをやめてしまった。それから一ヶ月以上のブランクがあった。それはブランクと言うよりも他のどんな本も読めないスランプと言ってよかった。好調を維持していたのにある投手と対戦した直後突如打てなくなる打者というのがたまにいるけどそんな感じだ。それまでの調子良さをすっかり崩されてしまった。その間に自分にとっての「ご馳走」本も出版されたんだけど買うだけ買って読めなかった。どんな大好物を前にしてもおなかが空いた気がしない。かなりの重傷と言えた。それでしばらく悶々としてたんだけど今日になってふとあと何ページ残ってるんだろうと気になった。確かめてみたら30ページちょっとだとわかった。それで最後まで読んでみる気になった。登場人物の何人かはどんな人だったか忘れていたけど構わずとにかく最後まで読み通した。
物語が時系列に進まない小説というのは別に珍しくない。好きなガルシア=マルケスの作品にもそういうタイプのものがある。ただし本作の場合は物語が時系列でないだけでなく、しばしば主観的かつ内省的過ぎて描写の意味がわからないという状況が訪れるようにできている。ここまでディープに個人的な感受性の世界を切り開かれてもとても着いて行けない。それが正直な感想ということになった。それで「解説」を読んでとても納得した。要するにそういう風に書いてある訳だ。四部作の第一作なのであと三作どうせなら読んでみたいけど読めるかどうか自信がない。とりあえず買ってある大好物を読んでから改めて考えてみたい。

あけましておめでとうございます。

旧年中は大変お世話になりまして、誠にありがとうございます。こちらを訪れて下さる方も、めっきり減ってしまったのではないかと想像しますが(カウンターはずされちゃったので確かめようがない)、本年も何卒よろしくお願い申し上げます。

ただ持ってるだけの本。

Sherlock Holmes: The Complete Stories With Illustrations from the Strand Magazine (Special Edition Using)

Sherlock Holmes: The Complete Stories With Illustrations from the Strand Magazine (Special Edition Using)

随分前に一度買って一昨年の暮れにお気に入りの本棚を塾に置いたときにこの本も置いておきたいと思って探したんだけどどういう訳かどこにも見つからなくて仕方なくアマゾンで買い直した一冊。シャーロック・ホームズの単行本を一作目の「緋色の研究」から最後の短編集「シャーロック・ホームズの事件簿」まで収めのみならず初出時の挿絵まですべて収録している。読むのはかなり骨が折れるので読まないんだけどホームズのファンなら絶対に手元に置いておきたくなる本だと思う。

年末が近づくとお休みの生徒さんが多くなる。

塾を始めるとき大変参考になった本。これによると塾はなるべく休むなということでできうる限り休まないようにこれまでやって来た。年末年始も大晦日と元日だけ休みという年もあった。とにかく必死だったのでそれでも別に構わなかった。ただ年末が近づくとお休みの生徒さんが多くなるのも事実だ。今日なんかも時間帯によっては四人中三人が休みでこうなると学習を前に進めることができないので(休んだ生徒さんが置いて行かれてしまうから)勢い復習ばかりやることになる。今日はたまたま学校の冬休みの宿題をやりたいので自習にして下さいとひとりだけ来た生徒さんが言うのでそうした。すると当然ながら何もすることがない。質問があったときに説明するだけ。でもこの仕事は一日の拘束時間は短いけど休みは本当に取りづらいのでこういう楽な時間があると少しだけほっとする。それから都内ではクルマの交通量が減ると、ああ、正月らしいなあと毎年感じられるんだけど、塾の講師独特の感じ方として生徒さんのお休みが増えると、ああ、今年も暮れが近づいて来たなあという気がする。それはそれでなかなか悪くない。過ぎてしまえばあっという間の年末年始の休みだけど最近年のせいか慢性的に疲労感が抜けないので楽しみに待っている。

こけしの名前。

塊魂は前の会社にいたとき取引先にゲーマーがいてすごくおもしろいからとソフトを貸してくれたのがきっかけで始めた。ほんとにおもしろかったのでその後ほどなく買った。いくつ頃だったか忘れたが子供もやり始めてやがて家族のうちでいちばんうまくなった。このゲームでいろんなものの名前を覚えたよ、たとえばこけしとかさ、でもこけしの名前なんてみんなどこで覚えるんだろう、と子供は言う。なるほど。今ではこけしのあるうちというのも少なくなってしまったんだろうか。僕の実家にはあったけど確かに少なくとも僕の家には一つもない。このゲームがなかったら子供はこけしを知らずに育ったのかも知れない。だからどうということでもない気もするけど。タイトルはもちろん「薔薇の名前」のもじりです。

歩かなくなった道。

前の会社を辞めて早いもので六年が経った。六年前の秋から冬にかけてハロワに通っていた。月に一回は失業手当をもらう手続きをしに。また希望の職場が見つかったときには紹介してもらうために。歩いて行けないことはなかったので小一時間かけて歩いて行った。今だから言うけど、と家人は言う。ハローワークに出かけるときはいつももう二度と帰って来ないんじゃないかって思った。それくらい悲壮な感じがしたんだろうと思う。それはわかる気がする。でも帰らない訳はなかった。他に帰るべきところなどない。自殺でもするのでなければ。でも自殺は少なくとも一度も考えなかった。妻子を残してひとりで死ねる訳がない。
塾を開いて五年半、別に避けている訳ではないんだけどそのハロワへの道を滅多に歩かなくなった。小学生だった子供と毎週散歩していた頃何度も通った道だ。途中に結構大きな商業施設があってそこへ行くためによくその道を使った。地下鉄でもバスでも行けるんだけど子供と僕は歩いた。今でもその商業施設自体にはたまに行く。でも家人とふたりなので歩かずバスや地下鉄を使う。だからその道を歩くことはほとんどなくなった。そこを歩く必要がもともとなかったとも言える。
途中においしいパン屋さんがあったのを思い出して家人が懐かしがりふたりで歩いて行ってみようということになって先週出かけた。途中と言ってもハロワへの全行程の十分の一ほどの道のりに過ぎない。道の両側にある店は結構様変わりしていた。どのくらい歩いてなかったのだろう。二、三年は経ってる気がした。そしてそこにはハロワに通っていたあの冬の心持ちがまだリアルに染みこんでいた。重く悲しいのにどこか軽々しくて乾いた感じがする。その独特な感情はなかなか捨て去ることができないように思えた。でもそれをなんだか懐かしいと思う程度には回復できている気がした。回復できてよかったと思った。

分解掃除。

少し前にタグホイヤーの腕時計がまた止まった。今度こそ電池交換かと思って池袋の量販店に持って行くと電池を交換しても動かないと言う。分解掃除とそれからもう何年も前から動かなくなっていた竜頭の交換を勧められる。古い時計なのでパーツはもうないと聞いてるんですがと言うと問い合わせてくれると言うのでお願いしてみることにした。少し経って見積もりの電話がかかって来てパーツはあったので分解掃除とパーツ交換で合わせて三万円ちょっととのこと。安くはないけど三万円で買える時計でもないのでこれでまた何年か使えるならいいかと思って承諾した。それが今日できあがって来た。元々がマット仕上げだったので新しい竜頭だけがぴかぴか光ってるけど腕時計をしない生活というのはなかなか不便だったのでそれから解放されてよかったと思う。アイルトン・セナが亡くなって24年、このタグホイヤーが彼への追悼の思いを担って来たし、これからも担って行く。

家人の本の売り上げ。

家人が電子書籍を出してもらってるある出版社は数ヶ月毎にその間の売り上げ冊数を知らせて来るらしいんだけど作者への支払いが一定額以上にならないと支払いが延期される。それはまあ別に構わないんだけど(たいてい最高でも数百円の収入にしかならないから。)いちばん最近の期になって突然その前期の数百倍もの売り上げになったと知らせてきて支払いが発生することになった。さすがに驚いたらしくて本人が理由を調べたらどうもその作品を扱う電子書籍のサイト数が増えたということらしかった。ということは潜在的には家人の作品を読んでみたい読者が結構いて、ウェブ上への露出度が高まったからそういう人たちを掘り起こせたということなんだろうか。常に自己評価の低い彼女は僕のこの説にはあまり納得していないようだけど控えめに言ってもそういうことなんじゃないかと思う。どんな作品を書いてるか知らないしもちろん読んだこともないけど、家人の性格や価値観などから想像するとおそらくかなりストーリーのしっかりした作品を丁寧に書いてるような気がする。ひいきの引き倒しかも知れないけど。
編集者さんとか同じ仕事をする人たちとかのランチに出かけることがあって話をしてくると、中には電子書籍は収入が少なくて割に合わないと言う人もいるらしいんだけど家人はとにかく知名度を上げるためにはどんな仕事でも引き受ける考えらしい。単純に収入だけを考えたらパートでもした方が効率がいいと思うけど前にも書いたかも知れないけど外に働きに出るというのがあまり向いてないので誰にでもできる訳じゃない仕事をせっかく始めることができたんだし徐々にでも売り上げが伸びたらいいと思って見ている。

捨てる神あれば。

11月いっぱいでふたりの生徒さんが塾を辞めることになった。ひとりは小学六年生の男の子で理由はうちで勉強しないこと。でもそんなこと言われても塾としては困る。大体小六でコンスタントにうちで勉強する子なんているんだろうか。中学受験をする子を別にすれば宿題が出るからいやいやそれだけはやるというのが実情ではないかと思うんだけど。結構長く通ってくれていた子なんだけど仕方ない。もうひとりは中三の男の子で理由は高校受験をやめてなんか特別な学校に推薦入学するから。この子はもともとちょっと変わっていて塾に来ても自習したいということで授業は全く聞かずにひとりでなんかのテキストを開いてたり寝てたりしていた。質問なんて一度もされたことがない。来る意味ないじゃんと思ったけどそれでいいということなのでほっといた。おそらく成績もかなりひどかったんじゃないかと思う。それは先の小六の子にも当てはまる。塾を辞める子というのは大抵成績が悪い。それを塾のせいにしたいのはわかるしそれは幾分かは正当なんだろうけどでもより多く本人のせいだと思う。うちの塾でめきめき成績が上がる子というのもいるからだ。
それからもうひとり小学五年生の女の子がちょっとあやしかった。同じ学年の男の子ふたりと一緒に受講してたんだけど(ちなみに三人とも学校は一緒で友だちどうし。)、彼女が問題を解くのがちょっと遅かったりすると男の子たちが早くしろよみたいなことを言う。そういうことを言うのはやめようと諭してもやめない。悪気がなさそうなのが余計にたちが悪い。おそらくそのせいだと思うんだけど彼女が休みがちになった。デリケートであまり自信のなさそうな女の子に見えるけど僕に言わせれば三人の中でいちばん頭がいい。この仕事で二番目にやりがいを感じるのが頭のいい子を教えることだ(ちなみにやりがい一番はできない子ができるようになること。)。男の子ふたりによると学校で彼女はもう塾を辞めると言ってるそうで、僕になついてくれているように思えたこともあってそれは残念だなと思った。また本音を言うと先の二人で月四万円以上の減収で彼女も辞めると合わせて六万近い減収となってそれは結構深刻な事態なので避けたいという思いもあった。それでダメ元でお母さんにメールを書いて、男の子たちと一緒の授業が嫌なら時間帯をずらしてひとりで授業してもよい旨伝えた。そうしたら来ると言う。できない子が辞めるのは仕方ないけどできる子が辞めるのは精神的なダメージも大きいのでそれをつなぎ止められてよかったし、減収額もやや減ってその意味でもよかったと胸をなで下ろしていた。そしたら。
11月も半ばになって新しく中一の生徒さんが塾に入ることになった。お父さんが電話をかけてきたのが10月半ばくらいで一度話をしに来た後音沙汰がなかったので諦めていたら時間割が他の中一の生徒さんと合わないのだが個別に見てもらえるかとほぼ一ヶ月後に電話があったので引き受けることにした。そして先週になってこの春一度辞めた小学生のお母さんが尋ねて来てもう一度通わせたいのだが大丈夫だろうかと言うのでこれも二つ返事で承諾した。おかげで減収は一万円程度にまで縮まった。この仕事は本当に捨てる神あれば拾う神ありだ。もしくは禍福はあざなえる縄のごとし。そうは言っても今年度は辞める生徒さんが激減して大変助かっているんだけど。

ボヘミアン・ラプソディ。

2010年に一度書いてるんだけど僕が洋楽を聴き始めたのは小五の時できっかけは日曜の朝のTBSのラジオ番組だった。番組名は覚えていない。小島一慶さんと久米宏さんがさいころかなんかを振って小島さんが勝つと洋楽のベストテンから一曲、久米さんが勝つと邦楽のベストテンから一曲かけるルールになっていた。歌謡曲が何より好きだったので初めは久米さんを応援していたんだけど小島さんが勝つと強制的に洋楽を聴くことになってそれが続くと洋楽の中にもお気に入りの曲ができた。今思い出せるのはジョン・レノンとかポール・マッカートニーとかカーペンターズとかでその中にクイーンもいた。初めて聞いたのは「キラー・クイーン」で今調べると1974年10月11日のリリース、僕は11歳、小五だったのでぴたり記憶と合っている。フレディー・マーキュリーの裏声、おそらくなんらかのエフェクトのかかったコーラス、すごくオリジナルなメロディー・ライン、思いがけない展開、ギター、ドラム、よくわからないけどなんかかちかちいうパーカッションのようなもの、曲の隅々まで聴いて子供心にすごく気に入った。それからもたまにランキングするクイーンのシングルはすばらしかった。「ボヘミアン・ラプソディ」、「マイ・ベスト・フレンド」、「愛にすべてを」。ラジオを録音しては繰り返し聴いた。
おとなになってからクイーンのベストを買ったんだけどあれはいつ頃のことだったろう?数年前(7、8年前?)にクイーンのベストが割と大きな話題になったことがあったけどそのときにはすでに持っていた。収録曲は話題になったベスト盤とはちょっと違っていて残念ながら僕のには「ラジオ・ガ・ガ」が入ってないんだけど塾を始めてからもたまに取り出して聴く。
この前子供が映画「ボヘミアン・ラプソディ」を観たいという友だちが高校でやっとひとり見つかったから一緒に見に行くと家人に映画代をねだったそうだ。その友だちというのもかなり奇特な人だと思うけどなぜうちの子がそんなもの観たいのかよくわからなかった。すると僕が聴いてるのを傍から聴いてて関心を持った由。アニソンと声優さんのアルバムしか聴かないのかと思ってたらそうでもないらしい。映画から帰ってきてベスト盤を貸して欲しいというので貸した。毎日聴いているみたいだ。
ところでやはりラジオで聴いていた子供の頃すごく気に入っていた曲にキャロル・ダグラスという女性シンガーの「恋の診断書」というのがあるんだけど今調べたらシングル・レコードが結構売りに出ている。レコードじゃ聴けないから買わないけどそんなものまであるインターネットというのはやっぱりすごい。調べさえすれば大抵のものは手に入るのかも知れない。この前は「あしたのジョー2」のコンプリートDVDボックス買ったし。これもかなりすばらしかったです。家人も気に入ってくれた。