この前カルディーで買って来たコンビーフを初めは一日ひと缶ずつ途中からそれじゃ多いかなと思って二日でひと缶ずつ食べてたら心なしか太ったような気がする。それに長年のコンビーフ欲もだいぶ収まってきたようだ。塩分の取り過ぎも気になる。という訳でしばらくコンビーフはやめようと思う。だいたい寝酒ではアテは食べない習慣だったのに最近何かしら口にしてるんだよな。ぜいたくになったもんだな。
やりがい。
夏休みが終わるとバイトは通常の仕事に戻る。夏休みの間だけ別のプログラムが組まれていたとでも言えばいいだろうか。そのプログラムにやっと慣れたかなと思ったら九月の訪れと共に元に戻るといった感じでその頃にはもう通常の方のスケジュールをあらかた忘れてしまっている。まあスケジュールの書かれた表をきちんと読み込めば何時に何をすればいいかわかるようにはなってる。ただなんでもそうだけどそういうのを読んで理解するよりも口頭で指示を受けた方が楽だ。だから先輩のバイトからもこれどうするんでしたっけとか尋ねられることも多い。個人的にはそういうところ割に完璧主義なのでスケジュール通りきっちり動けないと気が済まない。木曜日は月曜日に次いでそうした手はずが複雑な曜日なんだけど他のふたりに指示を出しつつ時間内にやるべきことをすべてやりきることができた。学生さんのバイトの中にはひたすら楽な方がいいと考えてる人も多いみたいだ。でも今日みたいに何もかもをスムーズに運べるというのが僕なんかには仕事のやりがいと感じられる。そしてそういうのって一回社会人を経験してみないとわからないのかなとも思う。ただしこの場合自分の感じ方をそのまま肯定していいかどうかは本当はよくわからない。楽な仕事の方がいいじゃないかという考え方がいつでも必ず間違ってるという根拠はないからだ。もしかしたらそういう考え方の方が正しくて僕のように仕事にやりがいを求めたりすることの方が間違ってるのかも知れない。という訳でどちらが正当なのかという形而上学的判断はひとまず保留にして自己満足に過ぎないと割り切りつつ日々バイトにやりがいなんかを求め続けている。笑わば笑え。
綿の国星。もしくは開かれるタイムカプセル。
うちの居間には天井までの本棚が三本ある。その他に普通の本棚に小さめの本棚を載せたのがあってそれらが壁の一面をほぼ覆い尽くしている。その他に文庫専用の本棚を金具で無理矢理縦に二本つなげたのがあってさらに磨りガラスのはまったドアを持つ真っ白でちょっとおしゃれな足つきの棚がある。最後のものにはゲームソフトとかCDとか今やどうやって聴けばいいのかわからないミニディスクとかが入ってる。文庫専用の本棚には文字通り文庫本が収めてある。古いものは僕が中学生の頃買った北杜夫さんとかヘミングウェイとかの作品だ。若い頃読んだちくま文庫版の太宰治全集なんかもある。入り切らない本は机(僕が学生の頃買った机。後述の子供の勉強机とは異なる。)の上の壊れてしまったデスクトップパソコンの上とか床とかに無造作に積み上げてあり大きな地震があっても崩れなかったけどたまに足が引っかかったりすると崩れることもある。たぶん全部で百冊以上ある絵本と床に積み上がってた本のうち本棚一本分は塾に移した。読書量が減ったので一時期みたいなスピードで蔵書が増えることはないけどそれでも捨てたり売ったりはしないので減らない。でも本題はそのことではなかった。
本棚でほぼ覆い尽くされてる壁にはしかし二十センチくらいの隙間があってそこにも本を置こうと細長い本棚を買ってきたのはあれはどれくらい前のことだろうか。二十年は経ってないけど十年以上は前だ。ところが幅を間違えて買って来てしまって他の本棚と同じようにこちら向きに置くことができなかった。横向きなら置くことができる。つまりその本棚に本を入れても開口部は隣の本棚を向いてるので本の出し入れはできない。本棚ごと引っ張り出すしかない。ところがその本棚の隣には子供の勉強机が置いてあるので―これで我が家がいかに狭いかがおわかりいただけると思う。―まず勉強机を移動しないことにはその本棚を引っ張り出すことができない。でも勉強机というのはそもそもその上にいろんなものが置いてあるのが普通でおいそれと動かせるものでもない。という訳でよくよく考えた結果捨てたくはないけどしばらくは読み返さなくてもいいコミック類をそこに入れてしまっておくことにした。つまり期せずしてその棚はタイムカプセルの役目を担ったことになる。塾を始めた十年ちょっと前子供は塾に自分の机といすを置いて勉強するようになったので居間の勉強机は事実上不要になっていた。でもかたづけるのも面倒なのでそのまま置いてあった。昨日思いついて机をちょっとだけずらしてタイムカプセル棚をほんの少し引っ張り出してみた。すると何冊かのコミックを取り出すことができた。とりあえず昨日取り出したのは大島弓子さんの「綿の国星」を何巻かと猫十字社さんの「小さなお茶会」を一冊だった。何もかもみな懐かしい。と沖田艦長のセリフをつぶやいてからおもむろに「綿の国星」の一巻目―とは言え第一巻とは印刷されてないのでこれだけ見る限りではこの作品がシリーズ化されたかどうかわかんないんだけど―を開いた。最初の作品「夏のおわりのト短調」を読み始めたらマジでページをめくる手が止まらなくなった。おもしろいと言うよりひたすら切実に痛い。これ二十代から三十代にかけて何度読み返したかわからないほど繰り返し読み返したのに今もまだ朝採れの高原レタスみたいにみずみずしい。発表されてからも何十年って経ってるはずなのに何ひとつ古びてなくてすべてが新鮮なままだ。そこまで突き詰めに突き詰めた末の普遍性が込められていてそれが時を超えて今このときにまで無傷で届いてるんだろうな。個人的には猫の多頭飼いを始められた後の大島さんの作品はちょっと行き過ぎなんじゃないかと思って敬遠してる部分がある。でもこのあたりの作品は本当にすごい。しばらくはすごいすごいと感心しながらタイムカプセルの中身を楽しむ日々になると思う。
眠る。
バイトは九月から時短にしている。今日はさらにそこから一時間削られたので午前中には帰宅することができた。お風呂を洗ってシャワーを浴びて一杯飲んでから昼食。午後のとても早い時間から昼寝することができた。眠れるかなと思ってたらあっという間に眠りに落ちて二度目覚めたもののそのまま横になってたらまた眠ってしまい結局三時間昼寝した。そんなに眠れるとは自分でも思ってなかった。眠れれば疲れが取れるかと言うとそう単純な話でもないけどまあ少しは体を休められたと思うことにしよう。
仕度をして塾へ向かうと塾で勉強してた子供が前期の単位は全部取れたと言う。それはよかった。成績次第では奨学金が打ち切られる可能性もあるしそうなったら学費を払うのはかなり難しくなる。あと一年半ちょっと。がんばって欲しい。
あそっか。ブログ書かなきゃ。
寝酒の最中にこう思って(あるいは独り言のようにつぶやいて)ブログを書き始めることが多い。今日は時短のバイトに通常の塾だったけどすごく疲れた。気圧とか湿度とか関係してるのかも知れない。でもバイトは九連勤の三日目なのでそうそう疲弊してる訳にも行かない。
★を下さった方のブログを拝見すると本当にいろいろな壁と戦いながら暮らしを続ける方々がいらっしゃるんだなとそう言ってよければ随分身につまされる。うちはと言うと相変わらずの貧乏暮らしながらそれを除けばそれほど問題はないのかも知れないと思えて来る。でも一寸先は闇。板子一枚下は地獄。常にそれを忘れまいと思っている。僕は言霊を信じてるのでこれ以上は口に出さない。どうかいつまでもこんな感じの暮らしが続きますように。できればもうちょっと金銭的に豊かな形で。
子供がご馳走してくれる。
名古屋で食べた味噌カツがおいしかったので東京にあるそのお店の支店で子供が家人と僕にご馳走してくれると言う。それで東京駅のグランスタにある矢場とんというお店に三人で行った。結構並んでたけどお店の人に聞くと二十分くらいで入れるということだったので待つと本当に二十分ちょっとで入れる。ロースカツの定食を頼むとカツと付け合わせのキャベツの盛ってあるお皿が出てきて目の前でたっぷり味噌だれをかけてくれる。ごはんと味噌汁お新香とレンコンの煮物がつく。ごはんとキャベツはおかわり自由。家人と僕は一杯で充分だったけど子供は大盛りを二杯おかわりしていた。まだそんなに食べるんだなあ。お肉が柔らかくて衣がかりっとしててとてもおいしかった。子供にご馳走してもらうというのは初めてだ。どう感じたかと言うと意外と特に感慨はなかった。一生懸命バイトして少しは自分の自由になるお金があってそれを親への恩返しに遣ったということかと思う。僕としては僕の稼ぎで家人にも子供にも喜んでもらえることの方がやっぱりうれしいかな。と思う。もちろん子供の世話になんかなりたくないという意味では全然ない。誰が払おうが家族三人で食事ができたらそれはそれでもちろんうれしい。ただね。このブログを読む若い人というのもあまり想定できないけどもしもいらっしゃるのならご参考になさって下さい。親としては親のためにお金を遣ってもらうよりも自立して自分の稼ぎで自分の生活を立ててくれることの方がずっとうれしいです。それがつまり親の役目の大半が終了したことを意味し何よりも親を安心させることだからです。
子供がガルシア=マルケスの「百年の孤独」を読みたいと言うので本棚から掘り出して埃を払って渡した。新潮社の白と青の表紙のものじゃなく「ガルシア=マルケス全小説」に収録されている改訳された方のバージョン。子供は中国の文化が専門で中国の小説にマジックリアリズムが大きな影響を与えた一時期があると知り興味を持ったそうだ。つい最近読んだと思ってたんだけどもう九年も経つんだな。君がこの小説を最後まで読み通せたらすごくうれしいねパパは。うちの蔵書はすべて君のためにとってあるんだから。https://ehe.hatenadiary.jp/entry/20140527/p1
通常営業。
今日は通院のためバイトは休み。病院の近くにあるサブウェイでメキシカンミートタコスを家人の分とふたつ持ち帰りにしてもらう。こういうときのために少々お高めのビールを二、三本買って冷やしておくといいのかも。バドワイザーとかハイネケンとかカールスバーグとかね。バドワイザーなんて平気で三十年くらい口にしてないんじゃないかと思う。とか書いてたら飲みたくなってきたな。なんかおいしいもの食べておいしい酒を飲むしか楽しみがないみたいになって来たけどいやあそんなもんっすよね。人生なんて。明日からバイトも含めて通常営業になる。朝イチからバイトに入るって五週間ぶり?くらいかな?でもまあとりあえず夏の進行は終わった。これから次の夏休みがやって来る来年七月までの十ヶ月は通常営業で過ごす。
子供が二十二歳になった。
バイトが休みなのでゆっくり寝坊すればいいものを八時に目が覚めてしまう。朝食を済ませてもキリンシティーがオープンする十一時半までにはまだ随分時間がある。寝直そうかとも思ったんだけど家人と一緒にだらだらラヴィット!を観る。それでやっと十時に辿り着く。子供はまだ寝てるのでじゃあ十一時半にお店の前でとひと声かけて家を出る。食事の約束だとうちの子は絶対遅れないのでその点は信頼している。他は結構ルーズな子だけどね。池袋に着くとカルディーでコンビーフを探す。前回見たときより在庫が大幅に減っててなかなか見つからなかった。安いので四つ買う。十個買ってもよかったかな。それからヤマダ電機の地下二階の薬局で咳が止まらない家人のために咳止めの薬を買う。コロナ本当にしつこい。僕も熱はないのにまだ熱っぽく感じるし声も鼻声のままだ。咳も少し出る。正直いい加減にして欲しい。と病気に文句を言っても始まらない。それからサンシャイン60通りのサンドラッグで家人のシャンプーにリンスそれから子供の分のシャンプーを買う。キリンシティーの入ってるWACCAという商業施設へ向かう道すがら家人がABCマートで安いアディダスのシューズを見つけて子供のために一足買う。要するにまあ足りなくなったりくたびれたりした日用品の代替物をまとめて買った形だ。十一時半ちょうどにお店に着く。あとは大体いつもと一緒。いつもはラムの焼いたののランチを食べる子供が今日はラムを単品にして最後に二種盛りのカレーライスを食べたことくらいかないつもと違ったのは。今日こそはピザを二枚食べるぞと意気込んでいた家人と僕は結局おなかいっぱいで一枚しか食べられなかった。叶わない望みというのは数々あれどこれもそのうちのひとつなのかも知れない。たまたまだけど今日は池袋西武がストでお休みでたくさんのおそらく職員の人たちが抗議のプラカードを持ってお店の外を通り過ぎて行った。ああいう光景も今やなかなか見られるものじゃない気がする。ちょっと感慨深かった。ただそのせいで毎年買ってるトップスのチョコレートケーキが買えなかったので子供のバースデイケーキはまた後日ということになる。
夏期講習が終わった。
起き抜けの体はあらゆる労働を拒否する勢いで猛烈に打ちのめされている。心の底から本当に行きたくないなあと思う。でもそういう訳には行かない。対価だけ受け取っておいて仕事はばっくれるという訳には行かない。それが資本主義の中で生きて行くための最低ラインの倫理だ。だから食べたくないのに無理矢理朝食を済ませて仕度を調えて出かける。夏期講習最終日は生徒数が多くて手間のかかる授業になった。とにかく目の前に現れる課題を片付ける。その繰り返しだ。そうやって規定の時間を乗り切ると教室のドアを閉めて鍵をかけバイト先に向かう。暑い。更衣室で着替えて顔を合わすスタッフさんたちに挨拶して持ち場につく。いつもは三人体制で回す仕事が一時一人だけになっちゃったけどもう慣れたと言えば言える。淡々とこなす。だってそうするしかないじゃん。この淡々とこなすモードに入ると割に楽に仕事ができる。先のことは考えず過ぎたことは悔やまず。人ひとりにできることなんてどうせたかが知れている。何をどう考えたって状況が好転する訳じゃない。つまり一種の判断停止状態なんだろうな。でも楽は楽だ。根が小心者なのでいつもいつもそうできるとは限らないけど。そうしてバイトが終わるとお昼のブレイクだ。家人と一杯やりながらいろいろな話をする。笑う。この人と結婚したメリットは多々あるんだけど―と言うか結婚をメリットという観点から語るのもどうかと思うけど―笑うというのはすごい大きな要素だと思う。家人はおそらくお笑い番組がいちばん好きであらゆるお笑い番組を録画している。帯番組のラヴィット!でさえ毎日録画してる。それでときにはふたりの会話が掛け合い漫才みたいな感じになって大笑いする。僕も人を笑わせるのは嫌いじゃないので―そういうのって話し相手に対するサービスの一種だと思ってるところがある―家人に拮抗できてると思う。そうしてひとしきり笑ってから昼寝する。
今日に限って言えば昼寝からの寝覚めも悪かった。大体はアラームより前に目覚めるんだけどアラームにたたき起こされる日は当然寝覚めはよくない。でも時間もあまりないので準備をして出かける。午後の授業は本当にきつかった。自分が疲れ切ってるのがわかった。でも解説すべきことがあればときにホワイトボードを使って解説しなければならない。それをやめちゃったら学習塾じゃなくなっちゃうからね。時計で残り時間を数分ごとにあと二時間あと一時間四十五分と確認しながらへとへとになって解説を続ける。そして不意に終わりがやって来る。すべての時間は過ぎたし残りの時間は全部自分のものだ。生徒さんたちが帰った後はカーペンターズの「One More Time」をエンドレスのリピートにしてかけながら消しゴムのごみを机から掃除したりごみ箱のごみを回収したり今日もらった月謝を数えてまとめたりして少しだけひとりの時間を楽しむ。あんまり疲れてると生徒さんが帰った後いすに座ったきり何をする気にもなれずに座りっぱなしになったりもするけどね。今日はそれほどじゃなかった。帰宅して入浴して寝酒の途中で家人にお願いして夕食を出してもらう。夕食なんて食べる元気がないのでほんのわずかな量だ。それが済んで寝酒の続きを飲んでいる。家人はスプラトゥーン3をやっている。十一時を過ぎたのでそろそろ寝ようかと思っている。明日は子供の誕生日だ。うちの子が生まれた日の話お読みになりたい方いらっしゃいます?「8月に生まれる子供」でこのブログを検索してみて下さい。割にすごい話です。と僕は思います。
八月が終わろうとしている。
午前中の夏期講習は明日が最後だ。六人くらい来るんだったかな。時給七千二百円になるけどもちろん負担もそれなりに大きい。その後バイトが二時間。という組み合わせも明日が最後になる。明後日は子供の誕生日で九月一日は通院で二日連続バイトはお休み。二日からのバイトは朝イチから四時間。ずっと五時間ずつやってたんだけどお昼に一杯やって昼寝しようとするとやや押し気味なので一時間削ることにした。以後また塾の生徒さんが激減するとかがなければ五時間勤務はやめるつもりでいる。あと二週間足らずで還暦だしね。少しは体もいたわらないと。前の会社は六十二歳が定年だったので残ってたとしてもあと二年で辞めることになっただろう。その場合はすでに使い切ってしまった退職金が温存されていたかも知れないけどどのみち大した金額じゃない。遊んで暮らせるのは二年に満たない。そう考えると四十九歳で転職しといてラッキーだったとも言えるかも知れない。六十二歳から学習塾が始められるか?なんとも言えない。年齢的にもう借金もできないかも知れない。何より運命と戦おうとする気力が保てるだろうか。四十九歳のときは本当によく戦ったと思う。守らなきゃならないものがあったからね。まあそれは今もある訳なんだけど。今後の展望として期待値が高いのは家人の作品だ。なんかこうシリーズ化とかアニメ化とかそういうのにならないかなあ。と思っている。もちろんかすかな希望なんだけどそういうのをうちに秘めた人生ではある。そしたら僕は塾をやめて家人のマネージャーとかになるのかな。それともあくまで塾を続けるのか。よくわからない。いずれにせよつらかった八月が終わろうとしている。実りある九月がやって来ますように。
まとまらない話。
月曜の夕方は生徒さんがひとりもいない時間が一時間だけある。今日はその時間ひとりで駅前に行き借りてた本を返し銀行でお金を下ろした。帰りに若いお父さんと四歳か五歳くらいの男の子の二人連れの後ろを歩くことになった。ふたりの会話を聞くともなしに聞いてるとオレンジ色の電車ってなんだっけと男の子。中央線とお父さん。中央線速いよね。走ってみると言って駆け出す男の子。気をつけてねとお父さん。少しして追いついたお父さんに中央線て何色だっけと男の子。オレンジ色とお父さん。男の子はまた走り出しお父さんはそれを追って足早に向こうに行ってしまった。中央線好きなんだね確かに速いもんねとほほえましかった。それはかつてのうちの子と僕との似姿でもあった。うちの子も電車が大好きだった。いいなあうらやましいなあと思った。もう一度小さかった子供と散歩するというのも悪くないなあ。ところが遠く離れたふたりの後ろ姿を眺めてたら不意に鼻の奥が痛くなりあっという間に涙がこぼれた。薄暗がりなので道行く人にはわからなかったと思うけどうつむくとぱたぱた涙が落ちた。何が悲しいのかと言うと自分でもよくわからない。いや自分なりにはわかってるつもりなんだけど絶対にうまく説明できない。そこを強引に説明しようとするとこういう言い方になる。男の子とお父さんのふたり連れは必ず何か切実なものを帯びている。切実にもの悲しい何かを帯びている。そのもの悲しさはお父さんと娘とかお母さんと息子とかそういう組み合わせにはないのかという当然の疑問に対してはわからないとしか答えようがない。僕が知ってるのは男の子とお父さんの道行きに関してだけでそこには原理的にと言うより他に説明しようのない圧倒的なもの悲しさが備わっている。うちの子と僕も随分長い時間をふたりで歩くことで過ごした。そしてそこにもそのもの悲しさが影を潜めていた。それに気づかない訳には行かなかったし気づいたら今度はそれから目を離すことができなかった。そういうすごい存在感の何かなんだけどたぶんうまくお伝えできてないと思う。すいません。
こういう援用の仕方はもしかしたら卑怯なのかも知れないけどこのもの悲しさがわかってるんじゃないかと思える小説を読んだことがある。それはコーマック・マッカーシーの「ザ・ロード」だ。近未来のすさみきった世界での男の子とお父さんふたりだけの道行きの話だ。僕はこの小説がとてもとても好きだ。そこにはあらゆる男の子とお父さんのふたり連れを象徴しうる何かがきっちり書き込まれている。
吉本隆明さんの講演録。
フルのお休み。用もないのに池袋へ行ったら電車を降りたところですでに八割方疲れている。歩くのも若干苦痛だったけど着いたばかりでそうも言えないので家人とふたりでISPに行く。いつものピクルスを買おうとカルディーに入ったらプライベートブランドのコンビーフというのを見つけた。今コンビーフを買おうとするといちばん小さいのでも五百円近くしてとても手が出ない。それが三百円しなかったかな。とにかく安いので試しにひとつ買う。結論から言うと帰って食べたらすごくおいしかった。お近くにカルディーがおありの方は是非一度チェックのほどを。家人はペットフードを思わせるのでコンビーフは食べられないと言うし子供にも少し分けたんだけど特に気に入った訳じゃなさそうだった。僕はどういう訳か子供の頃からコンビーフというのが好きでそれも料理とかに使うんじゃなく缶を開けてそのまま食べるのがいちばん好きだった。今疑問に思うのはそういう食べ方を誰に教わったのかということでうちの母親は自分の手を加えたものしか子供に食べさせなかったのでそういう食べ方を子供にさせたとは考えにくい。じゃあ誰だ?覚えていない。でもとにかく数十年ぶりに食べたコンビーフはとてもおいしかった。
それからお昼はサブウェイにしようと決めていたのでジュンク堂の向かってちょっと右側の細い通りを少し行ったところにあるサブウェイでふたつ持ち帰りにしてもらう。帰って一杯飲んで昼食の後昼寝。四時半くらいまで寝ている。それからまたシモーヌ・ヴェイユについて調べてたら「ほぼ日刊イトイ新聞」に吉本隆明さんの講演録がアーカイブされててその中にシモーヌ・ヴェイユについてのものがあることがわかった。タイトルは「甦るヴェイユ」。同じタイトルのご著書があって読んだことあるけどそれとは異なる内容のようだった。それを二時間くらい聞いた。それで思ったのはヴェイユはすごいということとすごいけど生活者としては違うんじゃないかということだった。哲学者が休暇をもらって過酷とわかってる労働に一労働者として従事するというのは確かにすごいかも知れない。でもそれは一労働者として働く哲学者であってうまく言えないけど労働者そのものとは違う気がする。ヴェイユは特に知的ではない労働者と自分との差異を自分の中でどう処理したんだかなあ。
吉本さんの講演は百個以上無料で聴けるそうだ。いまどき吉本隆明でもないのかも知れないけどこういうすごい人がいたということを忘れてしまうのはもったいないのかなあ。とも思う。
ということで。
あと何時間働くんだ?と指折り数えながら今日も過ごした。帰って来てからウィキのシモーヌ・ヴェイユの項とか熟読。労働で疲れてると言えばヴェイユじゃね?あとエリック・ホッファーとか?どちらもあまり読んだことがない。とりあえず明日は休み。一日くらい休んだってどうしようもないんだけど。なんか最近発言が後ろ向きだ。