指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ブログの効用。

作家の平山瑞穂さんのブログを拝読しながら、多くの場合ふた項目それも結構なクオリティーでよくもまあ毎日お書きになれることだよと驚いていた。自分でブログを始めてからはさすがに一日一項目で精一杯ながらもすでに50日分の記事(日記とは言えないものも多いので)を書いたことになる。初めは「はてなダイアリー市民」になるという目標に意外と励まされて書き続けられたことは前にも触れたが、目標を達成してからも何のかんので書き続けている(まあクオリティーのことはひとまずおいといて。)。

これにはやはり大きい理由があると思う。よしもとばななさんも作家になることより作家でい続けることの方がずっと難しい、という意味のことを確かおっしゃっていたと思う。それに倣えばブログを開設するより続ける方がずっと難しいのだ(スケールが違い過ぎてちっとも倣ったことになってないけど。)。

理由はいくつか思い当たる。本来なら、お読み下さる方やコメント下さる方に最も励まされている、と一番に書くべきところだ。確かにそれは大きい。特にコメントをいただいた場合は、自分の書いたものが読んだ人の何かを動かしたことになるわけだから、やりがいと言えばこれほどのやりがいはない。また黙って読んで下さる方が目に見える形で姿を現すことはすごくうれしい。でもわかりにくいたとえで申し訳ないのだが、それは指示表出性の高い喜びだという気がする。それは名詞の指し示す「意味」のようにはっきりしていてわかりやすく明白な喜びだ。あ、やっぱこのたとえはやめようかな、収拾がつかないかな。

じゃあ自己表出側の理由は何かと言うと、もちろん内側から書きたいという気持ちが湧き出てくることだ。ただ、普段何かを書きたいとずっと思っているかというと実はそういうこともない。少なくともブログを始めるまではそう思っていた。

でも、特に書きたいとも誰かに伝えたいとも思っていなかった考えが意外な大きさで自分の中にあることに気づいた。それが今のところ、ブログを書き続けている最大の理由だ。それは記憶に関する新たな意味付けであったり、その時々に目にしたり耳にしたりしたものの自分なりの解釈や分析であったり、いつか子供にもわかって欲しい親心であったり、ささいと言えばささいなのだが、それらがブログという媒体に引きずり出されて言葉という形をとるようになった、そしていざそうなってみるとそれらを書くことが自分にとって結構重要なことと思えるようになった、そういうことになると思う。

TVCMの30秒バージョンと15秒バージョンって、前者を後者の長さに縮めただけじゃなくてよく見るとたいてい別テイクなんだよ、なんてことは誰かに話したって大して興味を引かない。当然だ。だから自分の心の中だけにしまっておく。でも、ウェブの広大なフィールドに生きる人の中には、そうそうそうなんだよ俺も気づいてたんだけどさ、という人もいるかも知れない。そのうちに専門家からレクチャーがもらえるかも知れない。それは確かにわずかな可能性でしかないけど、自分のパソコンに黙って日記をつけているだけではその可能性すら0だ。

そういった、「可能性の読者」と、何人かの信頼すべき読者を当てにしてすごく個人的な話題を取り上げ、好きなように書けるということが、少なくとも今の僕にとってブログを続ける原動力になっている。

つか端的に言ってストレス解消になるんですよ、すごく。そんなことがストレス解消になるか?お疑いならやってみて下さい。ただし、世界の隅の隅の隅から始めることになるので、多くの読者がお望みならそれなりの努力が別途必要です。信頼すべき何人かの読者と、後は「可能性の読者」で充分な僕のようなタイプなら、始めたその日から割とハッピーです。