指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

アイノウ、アイノウ。

家にいるとき煙草はベランダで吸っている。吸い終えてからそのまま30回深呼吸してうちに入って洗面所に駆け込みうがいをする。古い言い方だけどホタル族ということだ。これは結婚以来雨の日も風の日も、台風が来ようが雪が降ろうが続けている。
居間からもベランダに出られるが冷暖房の効果とかを考え寝室の方から出るのが常だ。すると子供が寝室まで追いかけてきて窓からのぞいたりしていることがよくあった。煙草を一本吸い深呼吸を終えるまでの間しきりに何か話しかけているが、ガラス越しでよく聞こえずこちらはただにこにこしてるしかなかった。飽きて居間に戻ることもあったが二回に一回くらいはそのままそこで僕が寝室に戻るのを待っている。たとえそこで待っていたとしても、洗面所でうがいするまでは息を止めているので、寝室で子供に声をかけることはなかった。別に怒っている訳ではないことを伝えようとして、頭をなでたり頬をつねったりはしていた。
それがここ数ヶ月のことなのだが、ベランダから寝室に戻ると「アイノウ、アイノウ」と言いながらベッドの上で毛布を持って待っているようになった。こちらはその毛布を手にとって頭からかぶせてやり、ちょっと力を込めて体ごと左右に振ってベッドの上に倒してやる。これなら息を止めたままでもできる。ただそれだけの、遊びとも言えない遊びだ。
アイノウというのは家人によるとNHK教育テレビの幼児向け英語番組で見かけた「I know, I know.」から来ているようだ。それとベッドに倒してやる遊びとどういう関係があるのかはわからない。ただそういうことは子供には割とよくあるので、外からは窺い知れない何かを子供なりに考えているのだろうと思っていた。
いずれにせよベランダから戻って来た父親が決して口をきかないことを子供ははっきり了解しているように思われる。それをどう解釈しているかまではわからないけど、もしかしたらやはり拒絶に近い意味にとっているのかも知れない。そんな口をきかない父親と何とかコミュニケーションをとろうとして子供はアイノウを始めた。そんな気がする。
気に入った遊びなら何度でも繰り返すが、割と楽しそうなのに一度しかせがまないのもこのアイノウの特徴だ。父親はすぐに洗面所に行ってしまうのだから仕方ない。そのことも子供はきちんと了解している。こうやって書いてみると何だか子供がかわいそうな気もする。子供ながらに諦めるべきところは諦めそのまま受け入れているように思えるからだ。
「I know, I know.」が、口きかないんだよね、わかってるわかってる、一度倒してくれるだけでいいからさ、という意味だったとしたらちょっと恐いけど、事実そんな風に思えることもある。