指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

祖父と父と子≠父と子と孫。

訳あって帰省することができずにいたらしびれを切らした父親が孫に会うために上京して来た。誰かを泊められるほどうちは広くないと言ったのでそう遠くない駅の近くにホテルをとったということだった。朝ターミナル駅まで迎えに行きほぼ半日を、子供の目から見れば祖父と父(プラス母)と自分で、父親の目から見れば自分と子供(プラス嫁)と孫とで過ごした。
前にも書いたけど父親が僕の子供に示す愛情はいささか度を超えている。度を超えているように見えるくらいで当たり前なのかも知れない。つまりたいていの祖父母は孫に対してちょっと度を超えた愛情を抱くものなのかも知れない。僕も子供を割にかわいがるけど父親の孫に対する思いにはかなわない部分がある気がする。ただすごく冷静に判断すればそれは錯覚なので、親というのは子に対してほぼ全的に責任を負わねばならないのに対し、祖父母はほとんど責任を負う必要がないため好意を無制限に開放できるというアドバンテージを持っている。もちろんそれは立場からして当然与えられるべきアドバンテージだ。でもそれが子供の日常をすっぽり包み込むような種類のものだとすると親としてはちょっと困る。そういう無制限の甘さは非日常であって日常は親の判断がコントロールする、結構シビアなものなのだという認識を子供には持って欲しい。これは世の親の思いとして結構普遍的と言っていい気がする。
子供も六歳になり祖父と過ごす時間が非日常だということがかなりはっきりわかって来たようだ。祖父が許すわがままを家人や僕が許さないということがありうることもわきまるようになった。もしかしたらその分祖父の威光は蔭ったかも知れないがそれが必然のようにも思える。
祖父と父と子という図式は父と子と孫という図式と同じように見える。でも真ん中に挟まれた前者では父、後者では子に位置づけられた身からは両者はまったく違っている。子はこの系列を離れてあるいは捨てて、女を愛し女と新たな家庭を持ってまるで別の次元に女との子供を産んで自覚的に父になったのだ。それが後から三世代の物語に回収されてしまおうとも、それとはまったく別の営みがそこにはあったのだ。