指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ビデオカメラ封印。

一昨年、幼稚園の運動会に久しく使っていなかったビデオカメラを引っ張り出して持って行き子供の姿を撮った。それで身にしみてわかったのはビデオカメラを回している限り撮影者は現場の生をトータルな形では捉えることができないということだった。たとえばかけっこを撮り終えてから誰かにお宅の子は何人中何位でしたかと問われたとする。全然わからない。自分の子供の姿を追うのに必死でスタートラインに何人の子供たちが立っていたかさえわからないし、映像にはあたかもひとりぼっちで走っているかのような子供の姿が残り、周囲との関係がわからないから当然何位でゴールしたかだってわからない。専門家ならいざ知らず、おそらくほとんどのアマチュアが同じ状況に置かれている気がする。
こういう映像にどういう意味があるか。撮った人の自己満足を除けば記録に残るという意味がある。この場合の記録に残るということは再現が可能だということだ。祖父や祖母の前で再現されればすごく喜ばれるだろう。何年か経って記憶も薄れた頃に見れば自分たちも当の子供たちだってきっと楽しいに違いない。
でもそれは何か違うのではないか。そう改めて思ったのは昨年のお遊戯会のときだった。何がどう違うとはっきり言うことができないのだが何かがひっくり返っている気がした。
それで今年のお遊戯会ではビデオカメラを封印した。
お遊戯会ではクラスをふたつに分けてそれぞれがひとつずつ劇を演じた。僕は子供のクラスにいる子供たちの半分ちょっとしか名前と顔が一致しないんだけど、たまたまそのクラスに半分しかいない顔見知りがうちの子供と一緒にひとつの劇を演じたため(結構な確率なんじゃないかと思う。)、思い入れもあってすごく楽しんで見ることができた。記録に残せなくて残念だったというさもしい思いもちょっとだけあるが、それでよかったと思う。