指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

見当違いなことを書きそうだけど。

AMEBIC (集英社文庫)

AMEBIC (集英社文庫)

蛇にピアス」と「アッシュベイビー」は読んだ。どちらも何て言うかあまり肌に合わなかった。それでも金原ひとみさんの小説を読み続けている理由が自分でも本当はよくわからない。ただ「アミービック」を読んで初めて、これを待っていたのかなという気が少しだけした。
今更ながらに気づいたのだけどこういう一人称の小説の場合、語り手が何を大切にしているかということを探りながら読むと自分自身との距離が測りやすくなる。語り手が何を大切にしているかを語り手が持つ広い意味での倫理ととると、語り手の倫理を探ればそれを読む自分の倫理との差異が見極めやすくなると言い換えることもできる。
唐突だけどわかりやすい例なのでよしもとばななさんの作品を挙げると、それを読むとき個人的には作品と自分との間にある倫理の差異の大きさを楽しんでいる。これはたいていのよしもとばななさんの読者とは逆な読み方のような気もする。少なくともよしもとさんのサイトに寄せられる読者からの言葉を読むとそんな風に感じられる。たいていの読者はよしもとさんの作品に共感しているのだ。でも僕はどちらかと言うと違和感の方に魅力を感じるし、だからよしもとさんがどこまで行ってしまってもそれはそれとして受け容れることができる気がする。最近のよしもとさんの作品は読んでいないが、おそらくそれはまたちょっと別な理由による。
蛇にピアス」や「アッシュベイビー」も違和感を中心に読めばよさそうなものだったが、おそらく語り手の倫理自体がうまくつかめなかった。もっと自覚的に言葉は悪いけどもっと技術的に読む必要があったのにそれができなかった気がする。
それで「アミービック」の語り手の倫理は何かと言うとふたつあって、ひとつはできるだけ余分なものをそぎ落としてアメーバのような存在感に辿り着いてしまいたいこと、それからもうひとつは愛だと思われた。このふたつが矛盾するため、語り手は両者の間で苦悩しているのかと言うとそうでもなさそうに思われる。少なくとも愛の方は、自分の愛がかなえられそうもないという割とまっとうな物語の中で自己完結しようとしている。本当はその愛のあり方にアメーバの存在感を目指す語り手の倫理が干渉して話をややこしくさせたかったのかも知れない。でもそうはなっていない気がした。だから意外と普通だな、これ、という印象が一方に残った。
これに対して語り手のアメーバ倫理は当の語り手自身をも怯えさせるほど強烈だ。それはある種の病態を連想させる。でも病態としてしか描かれないとしたら物語は大きな損傷を受けてしまうことになる。届きにくくなるからだ。個人的には語り手の言う「錯文」のリズム(すごく美しい。)が、アメーバを病態から救っていることになっている気がした。
要するに愛の倫理には共感し、アメーバ倫理にはかろうじて手が届いたかな、というほどの場所に置かれることになった。いや、でも全然見当違いかも知れないけど。とりあえず三作の中では、この作品が一番お勧めです。