指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

コーマック・マッカーシー「ザ・ロード」を三つの位相から。

ザ・ロード

ザ・ロード

読み終えるのにものすごく時間がかかった。一行一行をなめるように読んだ。一度で二度読んだようなものだ。読み返されなかったセンテンスは多分ほとんどなかった。
父親と息子の話で、もちろんそれだけでともすれば涙に目がかすむ訳だ。ずっと以前に書いたけど父親が息子を見る視線にはとても独特なものがあり、作品は明らかにその独特な視線を自分と共有している。僕の子供にも作中の少年にもひどいことは金輪際起こって欲しくない。だから読むうちにひどく息苦しくなって来る。幸運でさえ何か不幸な出来事の予兆のように思われ、正直続きを読むのがいやになることもあった。でも読まない訳には行かなかった。そこに描かれているのは僕ら親子の似姿であり、彼らの運命は何らかの形で僕ら親子の行く先を指し示しているに違いないから。それほど彼らは僕らに親(ちか)しかった。以上が一つめの位相。
二つめの位相。それは世界のあり方だ。少年の母親はひとつの選択肢を選びそれを実行する。父親はその選択を阻むことができない。おそらく世界はそういう風にできている。その選択は必然の重さを持っている。必然。でもそれは本当は必然ではない。なぜならそれが必然だったとしたら誰もが同じ選択に向かわなければならないが、少なくとも少年と少年の父親はそれを選択していないからだ。でも彼らは本当にそれを選択していないのだろうか。選択するのを先延ばしにしているだけなのではないだろうか。少なくとも少年は何度か母親の選択に対して親近を示している。それを力の限り拒否する父親の姿は、逆に少年と同じ親近を胸に抱いていることを容易に想像させないだろうか。世界は傾き、誰もがその選択へ向かうような急な傾斜をつくり出している。沈み行くタイタニック号の甲板みたいに。でも一方で僕は思うのだけど、生き続けることが愛の前提条件なのではないだろうか。愛ゆえに相手を死なせるというのは、どこかに倒錯を隠していないだろうか。それは愛とは違う何かなのではないだろうか。あるいは愛が他の何かで武装した姿なのではないだろうか。
三つめの位相。父親は少年を生きる支えにしている。でも少年には生きる支えが無い。父親は少年に自分たちは火を運んでいるのだと言い聞かせる。でもそれは、少年の中に生きる支えを生み出させようと便宜的につくり出された嘘に過ぎない。本当は彼らは自分の生命以外何も運んでなどいない。少年はそのことに薄々気づいている。父親は気づきながらも認めようとしない。ただ少年を安心させようと虚しい言葉を継ぐだけだ。少年はせめて自分たちを善い者と位置づけたいと思う。それすら父親によって常に危機にさらされている。ここまでは二つめの位相と共通している。問題は、この物語は少年の視点から語られてもよかったということだ。でも作者は父親の視点で語ることを選んだ。理由はいくつかあるだろうけど、少年のトーンが変わる微妙な一瞬をうまく捉えたいというのもその一つに思われる。あるところを境に少年は目立たないながら明らかに大人になったように思われた。父と子は立場を入れ替え、子は父の嘘を寛大に許す。ここも作者の描きたかった重要な勘所と思える。
僕は子供と長い散歩をする。もう一年近い二人の習慣だ。それは少しもサバイバルではないけど、父と息子だけが持つ無邪気さと哀しみという点でザ・ロードと共通している。そう言えばイノセンスも、この作品の重要なテーマだという気がする。
すごい傑作を読んだ充実感がある。僕の死が突然死ではなく死の床に就くものだとして、そのとき子供がそばにいてくれたら、あるいはいてくれなくても、その最期の時間で一番長く思い出す作品があるとしたら、これに違いない。
「追記」
あまりに興奮していたので文体について書くのを忘れた。国境三部作に比べるとこの前の「血と暴力の国」はやや文体に変化があったことは前にも触れた。具体的に言うと文体が柔らかく開かれた印象になる。理由はよくわからない。ただ読みやすくなったのは確かで、それはこの「ザ・ロード」でも受け継がれている。国境三部作でマッカーシーを気に入ったのなら、今回の「ザ・ロード」もそちら側のより硬質な文体で読みたかったという気がするのは無理もない気がする。もちろんその文体がこの物語に適しているかどうかはまた別の問題だ。そしてその問題に作者が自覚的でなかったはずはない。