指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

もう一冊分、心の準備。

二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))

二〇〇二年のスロウ・ボート (文春文庫 (ふ25-1))

昨日一冊読み終えて今日から「死霊」を読んでもよかったんだけど、もう一冊分心の準備をしようと思って今朝出がけに読んでない本の山から一番薄いのを引っ張り出したらこれだった。今日はイレギュラーでちょっと遠い得意先に行くことになっていて、行き帰りの電車の中と遅めの昼食後の遅めの昼休みをかけて読み終えた。
古川日出男さんの本はあまり読んでなくて、初めは文体に慣れるのにちょっと手間取った。そのうちぐんぐん読めるようになったので慣れたかなと思ったら、また少しして読みづらくなった。そしてまたぐんぐん読めるようになって、というのを結局三回か四回繰り返すことになった。要するに物語の駆動力が弱いところと強いところが周期的に巡って来るため、前者では読みにくいと感じ後者では読みやすいと感じるということのように思われた。物語の駆動力の強弱は「カラマーゾフの兄弟」を読みながら強く感じたことで、カラマーゾフの影響醒めやらぬうちに読んだせいでそう思えたのかも知れない。また実際に停滞側と駆動側の二種類の文体が使い分けられていて、作品の緩急と言うかめりはりと言うか、そういうものをつくりあげることが作者によって意図されているのかも知れない。読み返せばはっきりすると思うけど、今はまあいいや。
それでどうだったかと言うと、いや最後はすごく感動した。村上春樹トリビュートと言っても村上春樹さんの模倣ではないのでその感動の質は「中国行きのスロウ・ボート」がもたらすものとは違う気がする。言葉は当たらないかも知れないが、「中国行き」よりもっとパブリックで夾雑物に満ちた世界が一点に集約されて行くそのダイナミズムの中に「二〇〇二年」の感動が潜んでいると言えば少しはいいだろうか。明らかに僕たちは「中国行きのスロウ・ボート」の時代よりもわかりにくい時代を生きている。そんな気がした。