指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「死霊」の自序。

死霊(1) (講談社文芸文庫)

死霊(1) (講談社文芸文庫)

「死霊」は随分前に一度通読しただけだ。確か六章か七章までがすでに出版されていてそこまでは一息に読み、八章と九章はその後出版されたタイミングで読んだはずだ。八章と九章を読むときに用心深くその都度一章から読み返すべきだったがそれをしなかったのでおそらくそのふたつの章を読んだときには何が何だかわからなかったに違いない。違いない、と言うのは読んだときに何を思ったかをまるで憶えていないからだ。
それに比べて「死霊」の自序はその文体に惹かれて何十回かもしかすると百回を越えて読み返している。その一節の「説き去り説き来たって(引用者注、これは通常思われるのと順序が逆ではないだろうか?)懸河のごとく弁証する大審問官に対してキリストは最後まで黙して答えない。」などはリズムがすごく好きで訳もわからず諳んじているほどだ。
今回この自序を改めて読み返し大審問官についてふたつのことが書かれているのに気づいた。ひとつはこの物語がキリストに対する信仰や神はあるかといった長い間の人類の思索に基づいて書かれていて、キリストを登場させれば彼にその数千年分の共同幻想を背負わせることができ、それは作者にとっては幸せだということ。同じことをキリスト抜きでやろうとすれば、同じ規模のリアリティーを確保するために作品の中に数千年分の人類史を書き込まねばならずそれは明らかに不可能だ。
もうひとつ、にも関わらず大審問官を読むということは、その作者(ドストエフスキー)の継承者にさせられるということだと埴谷さんは言っている。大審問官の形而上学を継承し発展する責任が自分に課されたのだと。埴谷さん一流のこの倫理観は後々「精神のリレー」という言葉が現れることとも呼応しているように思われる。
「さて、そうであるとして―。」
とりあえず一巻目を読み終えた。ところが三章の半ば当たりからまるで読んだ記憶がない。当然二巻目を開くのだけど、初見のような頼りなさがずっと続くのだろうか。菊地信義さんの装幀だけが乾いたおどろおどろしさを醸していて美しい。