指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

出張本二冊。

一昨日昨日の新幹線での移動と時間調整の喫茶店、それにホテルでの時間も使って本を二冊読んだ。

あなたが、いなかった、あなた (新潮文庫)

あなたが、いなかった、あなた (新潮文庫)

平野啓一郎さんの短編集。なんて言うか、いずれもすごく実験的な感じがした。おそらく一番長い「『フェカンにて』」はタイトルの文字列がわざわざ『』でくくられていて、もちろんそれには理由があるんだけど、『』をタイトルが乗り越えると言うか無化すると言うかそんな風に感じられるところがあり、読みながらちょっと目まいに似たものを覚えた。それと前々から思っていたんだけど、平野さんの小説に出て来る割とささいな描写の中には、自分以外にもこれに気づいていた人がいたんだ、という驚きを呼び起こすものが多い気が個人的にする。すごく僭越な言い方ですいません。村上春樹さんの比喩が言葉によって新たな現実やものの見方をつくり出しているとしたら、平野さんは現実をより微分化することによって同じように新たな普遍性にたどり着いている、とでも言えばいいか。それは平野さんの作品の大きな魅力だと自分には思われる。

オートフィクション (集英社文庫)

オートフィクション (集英社文庫)

金原さんの作品を読むのはこれで四作目。自分の中の不安定だったり不確定だったりする部分を、自分にとって当てにならないものとしてずんずん削ぎ落として行ってしまうと、もしかすると後には何も残らないかも知れない。逆に不安定だろうが不確定だろうが全部を自分と考えると、矛盾する自分たちのせめぎ合いに息苦しくなってしまうことは容易に想像がつく。その両極を適当に、あるいは都合よく使い分けて曲がりなりにも自己像をひとつにまとめあげるというのが少なくとも僕などのやり方だ。でもその適当な使い分けを不徹底として退けると、時によって自己が空っぽになったり過剰になったりする、どちらにしても本人にとっては厄介なシーソー遊びが始まってしまう。それはとても誠実なやり方のはずだが、他人からは自暴自棄と欲求過剰とを往復するだけの破綻した人格にしか見えないという事態は起こり得る。主人公はそうした事態を打開するための回答にすでに気づいている。ただ彼女の誠実さがその回答を彼女自身から遠ざけている。うまく言えてるか自信がないけどこの作品の主人公を見ていてそういうことを感じた。たいていの自己は彼女に比べると多かれ少なかれごまかしを含んでいるように思われる。