指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

時間と場と物語。

生きて、語り伝える
百年の孤独」の訳者後書きだったか、ガルシア=マルケスがその作品について、これは我々にとっての現実なのだと話したという一節が確かあったと思う。幽霊が家に住みついていたり、何年も続けて一日も休まずに雨が降ったりする「百年の孤独」をつかまえて、それを現実と見なすということがどういうことなのかわからず、もう二十年近くも頭の隅に謎として残っていた。それがこの「生きて、語り伝える」を読んでいるうちに謎でもなんでもないんじゃないかという気がして来た。すっきり謎が解けたとかそういうことではなく、この本に描かれている前世紀半ばまでのコロンビアという国は、要するに自分がいる今こことはまったく絶縁していて、独自の時間と場所とを持ったある意味での異界と考えてしまった方が早いと思われた訳だ。もちろん「族長の秋」を読んでも、「予告された殺人の記録」を読んでも、「コレラの時代の愛」や「わが悲しき娼婦たちの思い出」を読んでもうすうすそういうことには気づかされる。でもフィクションの地平から、曲がりなりにも事実を踏まえた「自伝」の地平に移行しても尚、そこに魔術的な何かが残ってしまうとしたら、その理由の半分はその世界に魔術的な何かが実際に秘められているからだと見なすしかない。シエスタ時の暑熱の向こうに見える幻は、実在する幻なのだ。
理由の残りの半分は、ある異界の時間と場の中で育った作者ガブリエル・ガルシア=マルケスが、必然的に持つことになった不思議な現実感だ。この本には、彼が幼少の頃から抜群に頭が良かったことを伺わせるエピソードがいくつもあるが、一見超現実的なことをきめの細かい感受性で解釈し続けるうち、否定しようがないものは受け入れようという態度こそ一番現実的なやり方だと思い定めたことから、それは来ている気がする。
では異界の中で超現実的な現実感を持つ作者によって語られた物語が、今ここにいる読者の胸を打つのはなぜだろうか。それが言えないとここまで書いて来たことは無意味なように思われる。回答案がいくつかあるが、それを確かめるために最初からガルシア=マルケスの作品を読み直したいと自分が思っているのに気づいて、ちょっと先が思いやられる。
ところで、この本は作者の物語像や世界像に共感しながらお話としても大変おもしろく読んだが、読むのにものすごく時間がかかった。入り組んだ語りのせいだ。たとえ相手が自伝だろうがこういう文体で書くことが作者にとって選ばれたということが、ガビートの頑固さをよく表しているようで、ほほえましい感じがする。作者をとても身近に感じられる作品だった。