指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

書き直すこと、読み直すこと。

めくらやなぎと眠る女
349ページまで読み終えてもまだ「東京奇譚集」まるまる一冊分が後に残っているというボリュームで村上さんの短編をまとめて堪能できる。自選短編集というのもファンとしてはうれしい。作者がなぜその作品を選んだかを想像する楽しみが加わるからだ。収録作品中「スパゲティーの年に」は特に大好きでものすごく何度も読み返した。と言うか短編集「カンガルー日和」を何度も読み返したということかも知れない。まだ学生だった頃だ。好きな本を心ゆくまで読み直す時間があった。だから村上さんの作品も学生の頃に出た「ダンス・ダンス・ダンス」くらいまでは何度も読み返している。就職してから刊行された作品はほとんど読み返していない。つまり村上さんの作品に対してはある時期を境にしてそれ以前とそれ以降のふたつのスタンスを個人的には持っていることになる。なじみの客といちげんさんくらいの違いはあるかも知れない。
そしてこの短編集にあるなじみの客の多くは加筆修正が施されている。それにはやはりちょっと複雑な気分にさせられる。たとえば「スパゲティーの年に」で列挙されるスパゲティー料理の種類は、以前のバージョンではこんなにかっこよくなかった。それは前の「象の消滅」のときも同じでたとえば「中国行きのスロウ・ボート」の結末などは、以前のバージョンの感傷的なところが至極あっさりした語り口に修正されていた。英訳されるに当たって普遍性をもう一歩分付け加えなければならなかったのかも知れない。あるいは作者が言うように主に技術的な観点からの改稿かも知れない。作者が作品を少しでも良いものにしようとすることは作者にとっての必然なので根拠を云々してもあまり意味が無い。でもやはり少しくらいは違和感を覚えない訳にも行かない。
それでどうしたかと言うと、まあ個人的な紆余曲折は措いて結論だけ言えば要するに若い頃の自分は村上さんの作品に心酔し過ぎていたんだと考えることに決めた。あまりにも近寄って眺めていたので、逆に全体像がつかめていなかったんだ、みたいに。そう考えると、なじみの客への親近感は若い頃の自分への郷愁みたいなものを多分に含んだいるように思われた。あるいは何度も読み返しながら長い時間をかけて、自分の好き勝手な形に作品を切り抜いて来た結果が、なじみの客の正体であるような気がした。そこからできる限り純粋に作品を救い出し、親近感も郷愁もいったんご破算にして作品を読む必要があった。少なくとも一度はそうした捉え直しをどこかでやっておかねばならなかった。そのためには改稿された作品の方がむしろ適している。
もちろん作品を自分の好き勝手に切り抜いて読むことがいけないとは思わないし、できるだけ自分の過去から切り離して客観的に作品を読むことが読み直すことのあるべき姿だとも思わない。ただそういうのをいったん棚上げにしてみるのもなかなかおもしろい読み方だという気がしただけだ。少なくとも僕に対して、改稿された作品たちはそういう方に目を向けるよう促してくれた。
親近感や郷愁と共に村上さんの作品を読み返したければ、手になじんだオリジナル版、その半分ほどは文庫だが、が、本棚の比較的取り出しやすい場所に並んでいる。でも当分の間それらを手にすることはないように思われる。