指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

日本近代文学の始まりの話はおもしろい。

失われた近代を求めてI 言文一致体の誕生 (失われた近代を求めて 1)
前にも書いたけど若い頃柄谷行人さんの「日本近代文学の起源」が好きで何度か読み返した。制度とか隠蔽とか内面とか告白とかいった近代的な装置に対してそれまで何も知識が無く、近代というものが持つ特殊な構造にこの本で初めて触れた気がしたからだ。でも近代というもの全体に関して明確なイメージを持つところまでは行かなかった。自分の理解の悪さということももちろん大きいけど、柄谷さんのその本はもともと近代の姿を全体像として描き出すことを主眼にしていなかったんじゃないかとも思われる。それよりも自明と考えられていることが実はまったく自明ではないという、そういうことがあり得ることについて書かれた本だという気がする。そのせいで特に近代にまつわる単語に対して、それをいったん括弧に入れて鵜呑みにしない習慣だけが自分には残った。でもそれは裏を返すと近代の姿を明確に映し出す可能性のあるものになら、いつでも手を出してみたい欲求が残ったことでもあった。今度の橋本治さんの本は、「失われた近代を求めて」の1で、副題が「言文一致体の誕生」だ。これはもう、何があっても読まない訳には行かない。
漢文脈と和文脈の通時的な融合の過程、文語体という言葉の持つ曖昧さ、慈円の「愚管抄」と二葉亭四迷の言文一致体の共通点と相違、なぜ日本近代文学の主流が私小説とならねばならなかったか、そして「平凡」という作品に込められた二葉亭四迷の意図など、どこを読んでもおもしろかった。特に二葉亭の「平凡」というのは、僕の記憶では退屈な作品というのが通り相場だったはずだけど、橋本さんは絶賛に近い評価を与えている。ちょっと読んでみたくなった。つか、読んでないのかよ。