指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

悪意について。

昨日の夜帰宅すると、一階のスペースに置いてある子供の自転車の雨よけのカバーがハンドルの高さほどまでめくれていた。風のせいかとも思ったがそれにしては不自然な形なのでふとのぞいてみると、ハンドルの前に取りつけてあるかごの中にゴミが捨てられていた。かごが露出していたからなんの気無しに捨てたと言うより、ゴミを捨てるためにわざわざカバーをめくり上げたように思われた。前にも同じようにペットボトルが捨てられていたことがあったが、そのときはさすがにカバーはかかっていなかった。捨てた人が同じ人ならそこに自転車のかごがあることをすでに知っていて、昨日はわざわざカバーをめくってまで捨てたということなのかも知れない。そこは不確かだが、でももしそうだったとすると、それはいたずらを越えた悪意を感じさせる行為のように思われる。
それで悪意について考えていたら「1973年のピンボール」だったかで、ジェイズ・バーのジェイが語った話を思い出した。飼い猫がある日、万力で潰されたような傷を前足に負って帰って来た、そういうような理不尽な悪意というのはあり得る、むしろそれらに取り囲まれていると言ってもいいかも知れない、といったくだりだったと思う。
でもこの発言によってジェイは、自らも悪意の担い手となりうる可能性を示唆してしまっている。そうでなければ世界は、悪意を抱く者と悪意を抱かない者とに二分されてしまうが、それは世界像として明らかに不自然だからだ。同じひとりの人間が、悪意を抱いたり悪意を抱かれたりしているという像の方が正しい気がする。
お前はそういう悪意を誰かに抱くかと自問すると、残念ながら、抱くこともあるという答えになる。ただそれが形を取って現れることが比較的少ないのではないかというだけのことだ。