指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

傷つき損なわれるということ。

考える人 2010年 08月号 [雑誌]
村上春樹さんのロングインタビューは、村上さんについて個人的にはこれまでまったく知らなかったことがたくさん明かされていてすごく興味深くおもしろく読んだ。たとえばそれまでほとんどなじみの無かった読書に、小学校三、四年生で急にのめり込み始めたとか、「ノルウェイの森」は村上さんにとって本流の仕事ではなかっただけにその爆発的なヒットがストレスとなったとか、新たに知ることができたことがとても多かった。
中でもひとつ今の自分にとってすごく切実だと感じられたのが、少年時代を目に見える傷を負わずに育って来たと思っていたが、小説を書き始めるのと前後して(だったと思う。)、やはり自分にも傷つき損なわれた部分があることに気づいた、というくだりだ。しかもそこでそれは両親のせいではないと二度繰り返されている。
吉本隆明さんの本で無意識にまるで傷を負わずに育つことがあるとしたらそれはどういう条件が揃ったときか、という仮定を読んだことがある気がする。それにはほとんどあり得ないような条件が必要で、無意識を傷つけずに育つことはまず不可能だと思わせるに充分だったと記憶している。つまり人は多かれ少なかれ無意識の中に傷を負いながら育ったと見なすしかないことになる。では子供の無意識に傷を負わせる張本人は誰か。
それは一義的には両親しかないと思う。両親でなければその代わりにその子供を保育した者だけど、ややこしくなるのでここでは両親ということにしておく。でも村上さんの言うようにその傷は両親のせいではないのだ。両親のつけた傷でありながら両親のせいではない。それを矛盾無くつなげるためには、子供を育てるとは多かれ少なかれ子供の無意識に傷を負わせることであり、それは避けることのできない必然だという前提が必要になる。そしてその前提は自分の子育ての中の実感と非常にうまくつながっている。
たとえば僕は子供をできるだけ伸びやかな心のままに置いておきたいと思う。でも躾をするということは主に何かを禁ずるということだ。子供の心の行きたい方向を堰き止め親の行って欲しい方向に無理矢理ねじ曲げることだ。これが子供の無意識になんの影響も及ぼさないとは考えられない。でもそのねじ曲げが無ければ子供が社会に適応して行く素地をつくることができない。傷つけるとわかっていながら傷つけない訳には行かない、それがおそらくすべての親の置かれた立場と言っていいと思われる。
ここから、無意識の傷と損なわれ方の深い方がより文学的だという言い分が出て来る余地があると思うが、それはやはり倒錯と言うしかない気がする。日常という視点に立てば、傷は浅い方が、損なわれ方は小さい方がいいに決まってるからだ。偉大な文学者になって欲しいから子供の頃から事ある毎に無意識を傷つけ損なって来ました、という親は少なくとも個人的には想定できない。もうひとつ、今までの話と児童虐待とはどう違うんだという疑問があり得ると思うけど、そこには違いがあって欲しいとは思うけどたとえ違いがあったとしても本質としては地続きと見なした方がいいと、少なくとも自分自身に向かっては思っている。
それから村上さんの作品を読んで一番初めに引きつけられたのが、傷つき損なわれたことへの登場人物の自覚だったことに今更ながら気づかされた。もちろん僕自身も傷つき損なわれているからだ。そういう考え方はそろそろやめた方がいいんじゃない、と家人は言うけれど。