指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

確かなことがひとつあれば、僕たちの物語はどこまででも行けるんじゃないだろうか。

獣の樹 (講談社ノベルス)
短編や短めの長編の場合はまた違って来るかも知れないけど、舞城王太郎さんの長めの長編(っていうのも変な言い方だけど。)からはこんな声が聞こえて来る気がする。確かなことがひとつあれば、僕たちの物語はどこまで行っちゃってもいいんじゃない?どこまででも行けるんじゃない?そしてその声が聞こえて来たら、舞城さんの作品はすごく安心して読めるものになるように思われる。安心してって、無害とか毒が無いとか、そういう意味じゃないよ?と、作者のまねをして言い切りに疑問符を付けてみるけど、少なくとも物語の展開に振り切られてしまうことは無くなる気がする。だいたい「ディスコ探偵水曜日」にしても、この「獣の樹」にしても一言で言っちゃえばあり得ない話なのだ。あり得ないだけならまだしもあり得ないことを前提としてもっとあり得ない話につながって行きそれがさらにもっともっとあり得ない話に導かれ、といった風にあり得ないの重層構造で物語ができている。これにつき合いきれなくなる読者って意外と多いんじゃないだろうか。ってそんなの勝手な推測だけど。でもその底にある作品のモチーフって割に倫理的だったり前向きだったりすごくまともだったりする。そのモチーフを錨のように深いところに打ち込んでおけば、あとはもう好き勝手に物語を膨らませてしまってよい、というのが舞城さんの創作の方法のように思われる、というのがここで言いたいことだ。だから読者は舞城さんの作品に素直について行って、めくるめく物語の展開をただ楽しんだり、驚きに目を見はったりするだけでいい。あるいはそれ以上に受け取れるものがあれば受け取ればいいし、無ければ別に何も受け取らなくてもいい。まあそういう風に話が解体して行くと別に舞城なんて読まなくてもいいじゃん、というところまで行っちゃう訳だけど、その一歩手前で踏みとどまりたい人がもしかしたらいるかも知れないので、その人のためにちょっとお節介。