指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

東大っつーのはなに?

リア家の人々
「BOOKS」に「不確か」をつなげるとすげー据わりがよくて要するに俺が本について書いてることなんか全部不確かだと思えて来て、「BOOKS」のカテゴリーに入っている記事のすべてに「不確か」を追加したくなる。でも今回は不確かの中でも特に不確かなことが確かな、不確か中の押しも押されぬ不確かについて書きたいのでこんな風にした次第。
養老孟司さんの「バカの壁」を読んだとき、何ヶ所かで養老さんほどの方でも「東大」のステータスを解体し切れてないんだな、と思える表現があって驚いた。いや別にそんなの解体しなきゃならない義務でもあるのかと問われるとそういうこともないんだけど、なんとなくそういうのって解体しといた方がかっこいいんじゃないかと思うのは自分の倫理観の押しつけに過ぎない。
でも橋本治さんはそういうのはやっぱり解体しといた方がいいという考えをお持ちのような気がする。でももしかすると解体するってことは対象化するってことだからそれ自体がかっこ悪いじゃん、と思われているかも知れないし、どうだっていいとお考えかも知れない。そこは本当に不確かだ。
「リア家の人々」のモチーフをつかみ損なっているのは、シェークスピアリア王を読んだのがもう本当に随分昔のことで何も憶えていないせいも大きい。ただこの作品を読んでいるうちにそういうスイッチの入り方は間違ってるんじゃないかと薄々は気づきながらも、これは「東大」について書かれた小説、言ってみれば「東大小説」なんじゃないだろうかという気が唐突にしたせいもある。
と言うのもこの作品の文体には、小説と言うにはあまりに説明的過ぎるところがあるからだ。「巡礼」なんかでも時代の大きな流れとある個人との関わりを描く方法がとられていたけど、時代と個人は緊密に結びつけられ、時代を通して個人を描くことができ、個人を通して時代が描けるような場所が設定されていた。その、時代と個人の緊密な結ばれ方は、この作品ではあちこちでほどけてしまっているように読める。その意味のすべてはつかみきれないけど、東大とはなんなんだという問いが作者にあったとすると、少なくとも部分的に自分には納得が行く・・・ような気がする。時代と個人をバランスよく結びつけること以上に大事なモチーフが作者にあるとしたら、この作品の場合それはなんらかの形で東大と関係がありそうに思われる。
橋本さんの著書のタイトルをもじって「東大っつーのはなに?」と問うても僕には何ひとつわからない。考える手がかりすら無い。ただ、そういう問いかけに耐える大学があるとしたらそれは東大だけだという気がする。「京大っつーのはなに?」という問いもいい感じではあるけど、東大はちょっと別格のように思われる。東大のステータスをまったく解体できてないのは他ならぬ自分だと認めてるようなもんだけど。