町田康著 「スピンク日記」
プードルのスピンクが語り手になっているので文体が小説よりずっと平易だ。小説ばかりかエッセイと比べても平易だ。エッセイはエッセイで不思議とフィクショナルな文体が使われることが多いからだ。だから町田さんをこれから読もうと思うなら、ここらあたりから始めるのがいちばん敷居が低いかも知れない。もっとも町田さんの猫ものエッセイを愛読していてこの本も僕より先に読むほどの熱の入れようながら小説は一向に読む気配が無い家人のような人もいるけど。まあいいんだけど。
平易になって何が変わったかと言うと割にくだらないことなんだけど冗談が面白くなった。小説作品の中にも町田さん一流の冗談はある。でも個人的にはあまり笑ったことがない。さあこれから冗談を言うぞ、という助走みたいなものが先に現れることが多いし、はっきり言って大体がおやじギャグみたいだからだ。でも「スピンク日記」は何ヶ所かで爆笑した。笑いというのにはやはりある程度不意を突かれた方が効果的な面がある。小説作品の文体だとあらゆる場面で不意を突かれっぱなしで、ずっと心が身構えているような状態になり、笑いを受け入れるのが難しくなるからということもあるように思われた。笑いにはこの作品のような平易な文体の方が適している。
もうひとつ死や病気の話題を避けて通れなかった「猫にかまけて」、「猫のあしあと」に比べて、明るい話題が選ばれていることもあると思う。かわいそうなもう一匹のプードル、キューティー・セバスチャンについてもあまり深刻な形では触れられていない。ただし町田さんの中でプードルの寿命が短いということはかなり強く意識されている。そこのところに小説作品ではそう単純には姿を見せない、命は尊いみたいなストレートな倫理が伺われる気がした。
ところでキューティー・セバスチャンを預かる際の奥様と町田さん自身がモデルと思われるふたりの諍いは、同じような機会があったら家人と僕の間にも繰り返されるに違いないと思われるものだった。家人はとても動物が好きで僕はそうでないからだ。別の場所で奥様が町田さんに投げかける「死んだらどうでしょうか。」という言葉を、家人も僕に言いたいことが度々あると言う。そう言ってしまいたい人間としての面倒臭さを町田さんと僕で共有しているというのが家人の言い分だ。動物好きの妻と面倒臭い夫という意味でこの本の夫婦と僕ら夫婦は似ている気がする。