指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

滝野川のひと。

どうで死ぬ身の一踊り (講談社文庫) 二度はゆけぬ町の地図 (角川文庫) 西村賢太著 「どうで死ぬ身の一踊り」 「二度とはゆけぬ町の地図」
「小銭をかぞえる」収録の二作に登場する、語り手と同棲している女が上記二冊の本にも登場する。ふたりが同棲していたのが滝野川というところらしいので、仮に滝野川のひとと呼んでみる。語り手はどうも芯からそう思っているかどうか怪しいけど個人的にはこのひとは言葉は時々乱暴かも知れないけどとても家庭的で優しい人のように思われる。パートで生活を支えているし、食事もきちんとつくり、語り手が没後弟子をもって任じている大正時代の私小説作家、藤澤芿造の全集を刊行しようと深夜続けている校正作業を手伝い、そのあとおつまみをつくって語り手の酒につき合う。自分に稼ぎがあったってちょっと恐縮してしまうほどの至れり尽くせりに見える。その上どうやら語り手には定期的な収入は無さそうなので、これがもし自分だったら申し訳なくて一緒になんか暮らせない。いやお前には自分にとっての藤澤芿造ほど大切なものが無いからそういうことが言えるんだ、と語り手は言うかも知れない。でも全集刊行のためという名目で女の実家から借りた三百万は、どうも生活費、と言うよりも語り手の古書集めや遊興費などに取り崩されているらしい。同棲する部屋もその金で借りたらしい。それほど大切な全集ならそのための金に手をつけるのはどう考えても理不尽だ。
理不尽と言えば語り手はとにかく理不尽だ。それだけ尽くしてくれる女にささいなことでむかっ腹を立て殴ったり蹴ったりする。そして自分をそこまで怒らせるお前の方が悪いんだくらいに考えているようだ。本当に一種すがすがしくなるほどどこまでも自分勝手で理不尽だ。
でも細かく言うと滝野川のひとの好印象をつくりだしている根拠がどこかにあるはずだ。そうでなければ理不尽な語り手の目を通した彼女の像しか手に入らないはずだからだ。ここで語り手と作者が分裂していると便宜的に言ってみる。語り手にとってはしばしば不愉快な彼女だが、これを書いている時点の作者にとってはそうではないように思われるからだ。彼女の言動の描写にあたたかく優しいものをにじませるのは作者以外にはあり得ない。個人的にはこの語り手と作者の分裂を盾にとって純粋な私小説などあり得ないと言ってしまいたい訳だ。言葉の選択の過程でフィクションが混じり込んでしまうのを防ぐことはできない。別の言い方をすれば語り手は作者がつくったものであり、その「つくる」部分にどうしてもフィクションが入って来てしまうように思われる。
いずれにせよ、理不尽な男と優しい女という組み合わせは個人的にはすごく共感させられる。贔屓の引き倒しかも知れないけど、滝野川のひとに家人のイメージが何度もだぶった。だから僕は身勝手で理不尽な男なんだろう。