指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

カーヴァーを読むということ。

愛について語るときに我々の語ること (村上春樹翻訳ライブラリー) レイモンド・カーヴァー村上春樹訳 「愛について語るときに我々の語ること」
カーヴァーもだいぶ読み慣れて来て、そろそろ作品の中に入って語りたくなった。もちろんそれは訳者が解題の中でおこなっているのでそれを読めば充分だ。だからあくまで、自分なりに、ということで。
たとえばふた組の夫婦がいる。どちらも夫婦仲は良くて先に結婚した方には子供もいる。この夫婦は相互にも仲が良くてよく一緒に飲んだり食べたりする。でも途中から何かが変わる。子供のいる方の夫にそれが現れる。それは夫婦独特の倦怠のようなものかも知れない。子供を育てる上で必須の不自由な感じから来る疲れのようなものかも知れない。とにかくなんらかの息苦しさを彼は感じる。ちょっとした気晴らしが欲しいと思う。もうひとりの夫を誘って彼は家庭を少しだけ離れ気晴らしをしようと思い立つ。でもそれはすでにちょっとした気晴らしくらいで済むような息苦しさではなくなっている。彼が抱えた不快感はもっとずっと大きく深く、それに見合った解消の仕方が必要になっている。彼は踏みとどまろうという発想を持たず、どこまでも自分の欲求に従う。そしてもうひとりの夫もいやいやながら結局はそれに着いて行ってしまう。ふたりの心のあり方の、暗さ、不気味さ、恐さ。でももっと恐いのはふたりにどこかで共感、しかも結構強く共感している自分を見出すことだ。彼らの中の何か暗いものがリアルに伝わって来て、自分には彼らがわかるという実感をつくり出す。今のところ自分にとってカーヴァーを読むということは要するにそういうことだと思う。