指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

カーヴァーを読み続けている。

大聖堂 (村上春樹翻訳ライブラリー) レイモンド・カーヴァー村上春樹訳 「大聖堂」
カーヴァーの二度目の妻である作家のテス・ギャラガーは、本書に収録された「夢の残影―日本版レイモンド・カーヴァー全集のための序文」の中で以下のように言っている。

(前略)批評家のハロルド・シュワイツァーはカーヴァーに敬意を表する文章の中で、エドガー・アラン・ポーの『盗まれた手紙』の中の「それは少しばかり簡単すぎる謎なのだ」という一節を引用していたが、これは実に当を得た指摘であると私は思う。彼が言いたいのは、カーヴァーの文章は何ひとつ隠してはいませんよと見せかけながら、実はすべてを隠しているのだということである。カーヴァーがこの企てに成功しているのは、ひとつには表面的な難解さをいっさい排しているからである。そしてそのために我々は、彼の文章のエネルギーが生み出される正確な源をつきとめることができぬままに、知らず知らずカーヴァーの術中にはまりこんでしまうことになる。(後略)

初めてカーヴァーを読んだときによくわからないと思った自分と、今の、カーヴァーを読むのを楽しみにしている自分との両方がここで説明されてる気がする。隠していませんよと言いながらすべてを隠す作家は当然難解な作家ということになると思う。でも表面的な難解さは排されているというのもその通りだ。実際どれを読んでも話の筋が見えないということはない。でも一編を読み終わって、さて、ええと、これはなんなのかな、と戸惑うような読み方も私見によればとりわけ初期のカーヴァーには起こりうる。そういう意味ではカーヴァーを難解と言うことはできる。でも、たとえ難解であっても「知らず知らずカーヴァーの術中にはまりこんでしま」えば、一読者としてはそれに越したことはない。それが今の自分の位置だと思う。
個人的にヘミングウェイの短編が好きで中学くらいで初めて読んでから数え切れないほど読み返して来た。でもその一編一編について、これはなんですかと意味みたいなものについて尋ねられたら今も答えられそうにない。それでも好きで読み返していたし、今も読み返せば好きだと思う。カーヴァーもそういう風に読んでいる。要するに初めて小説を読むときのようなやり方でということだ。なんかカーヴァーについて触れながら自分は一貫してカーヴァーの自分なりの読み方を説明しているみたいに見える。誰に対して?もちろんかつての自分とかつての自分に似た誰かに対してだ。
初期の刈り込みに刈り込んだ超硬質な文体の作品に比べると、本作に収録されている作品は長めだし全体的に優しい感じがする。カーヴァーもヘミングウェイの短編を愛読していたらしいし、カーヴァーを読み始めてすぐにヘミングウェイに似てると思ったけど、この短編集からはただカーヴァーだけが感じられた。