指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

いやな女の子なんてひとりもいない。

女たちは二度遊ぶ (角川文庫) 吉田修一著 「女たちは二度遊ぶ」
十一編のそれぞれに女の子が一人ずつ登場する。よく考えるといやな子なんてひとりもいない。中にはなんらかの問題を抱えてる子もいるけど、それでも彼女たちは誰ひとりいやな感じのする像を結ばない。作者がひとりひとりを核と呼べるところまでいったん掘り下げて、それから改めて状況の中で再構成していると言うか、当たってるかどうかわからないけどそういう手続きを踏んでいるからだと思われる。だからどの子も必然の感じを身にまとっていて無理が無く嘘が無い。おそらく気まぐれもわがままも悪意も無い。そういういやなものはすべて男である主人公たちの持ち物だ。主人公たちがそういういやなものを発揮すると、彼女らは耐えられるところまでは耐えて、耐えられなくなったらさっさと他者の仮面をかぶって彼らのもとから去って行く。つまり最後まで無理や嘘が無い訳だ。
彼女たちはしたたかなのか、それとも愛すべき存在なのか。もっともしたたかであることと愛すべき存在であることは必ずしも矛盾しないかも知れない。彼女たちを見ていると必要充分なだけしたたかで、そのことによって愛すべき存在になっているような気がする。そしてそんな風に彼女らを造形しているのはもちろん主人公たちではなく作者だ。彼女たちに無理の無い必然性を与える作業が、そんな風に彼女たちを輝かせたのだと思われる。もっともそう感じる自分にもちょっとしたからくりがある。作者が「女たち」と呼ぶものをここでは「女の子」と呼んでいる。そう呼ぶ自分は彼女たちよりずっと年をとっていてだから主人公たちより少しは温かい目で彼女たちを眺めることができる。という訳だ。