指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

意志は世界にどこまで迫れるか。

静かな爆弾 吉田修一著 「静かな爆弾」
吉田修一さんの作品ももう随分たくさん読んで来た。それで今はよーく考えれば一作一作の狙いと言うか、テーマと言うかそういうのが自分なりにかなりうまくつかめそうな気がしている。「ランドマーク」を読んだときにそんな風に感じた。いやもしかしたらもう少し前「パレード」を読んだときにすでにそんな気がしていたのかも知れない。要するに僕は吉田さんの作品を読むのと作品について考えることが好きなのだと思う。
この作品の前半の一方では、知り合った響子という女性の耳が不自由だという現実を実感のこもったリアリティーとして作品の中に根付かせることに心が砕かれていると思う。そのためにさまざまな細部が積み重ねられて行く。もう一方では主人公の仕事である報道のための取材が進行して行く。後半になると響子と仕事とがある観点からは同一視され、別の観点からは差異化される。同一視されるとき響子と仕事とは主人公にとって完全には理解できない他者だと見なされている。主人公は意志の力によって両者に肉薄して行くしか手だてが無い。でもそこに意志が介在するのは本当は虚偽なんじゃないかとも疑っている。
差異化されるとき響子は他者のままだが仕事は主人公自身に同一化している。主人公は多忙をひとつの現実として正当化するが、それなら本当は響子の耳が不自由な現実もまた響子自身が感じ取るのと同様の現実味で感じ取らなければバランスが取れないのではないかとも思っている。もちろんそんなことは不可能なんだけど。
神宮球場は他者としての世界、完全には把握しきれないあり方としての世界を指しているのではないだろうか。理屈の上ではその中に響子も響子の家も主人公が仕事で追いつめる真実も含まれているはずだ。でも実際にはそのあまりの多様性のためにそれらを見出すことができない。その中から響子を取り戻すためには、響子自身の意志がどうしても必要だった。そんな結末になっていると思う。