指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

ドストエフスキーを思わせる。

フラニーとズーイ (新潮文庫)
訳者あとがきの代わりに村上さんのコメントが本に挟み込まれている。ただしより長いバージョンが用意されていてそれは新潮社のサイトでダウンロードできる。例によって訳書にまつわる村上さんの文章はとてもおもしろい。
http://www.shinchosha.co.jp/fz/
確かにとても宗教色の強い作品だ。キリスト教ばかりでなく仏教や荘子なんかにまで言及されていて作者の宗教に対する関心の深さと言うか切実さみたいなものが感じられた。国民性ということももちろんあると思うけどそこにはなんとなくドストエフスキーに近いものがある気がする。対話がずっと続く構成とも相まってそんな印象をつくった。「フラニー」を読むと知識や自己表現が自我の拡大を、神への帰依が逆に自我の解体と言うか滅却をそれぞれ目指している構図が浮かんで来る。フラニー自身は後者を選びたいと考えている。ラスコーリニコフに対するソーニャのように。でも「ズーイ」に入ってズーイの見解を読むとことはそれほど単純でないことがわかる。そこには「グラス家」的、「兄のシーモアとバディー」的と言っていい特殊な事情が関与して来る。(ここでもまた「カラマーゾフの兄弟」が思い出されるかも知れない。)その特殊性を一般化する通路がどこかに無ければならないと個人的には考えたいところだけどそんなもの無くてもこれはこれでいいのかも知れない。という辺りに理解が留まった。受け身でなく攻めの姿勢で読むことが何より必要な作品だという気がする。