指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

あまり言いたくないこと。

この前家人とマクドナルドに入ってお茶を飲んでいたら、割にお年を召した女性がテーブルから立ち上がったのが見えた。連れはいず片手に杖を持っていて空いた片手でトレーを片づけるのが大変そうに見えたので思わず立ち上がって「お下げしましょう。」と言ってトレーを下げた。女性は何度か礼の言葉を口にし僕は会釈を返した。以前はこういうことがあると手伝おうかどうしようかというところからものすごく迷わねばならなかったけど今は比較的すぐに決断し自然に行動に移すことができるようになった。
吉本隆明さんはいいことをするときにはそれと同じくらい悪いことをしていると感じるくらいがちょうどいいのだという意味のことをおっしゃっていると思う。早い話がちょっといいことをしそうだと思ったときには、余計なことをしてすいませんとか差し出がましい真似で申し訳ありませんとか、そういう心の状態に入ればいいことになるんじゃないかと思う。でもスムーズにそうなるにはある程度の訓練と時間が必要になる気がする。年を取って自意識が弱くなるとか細かいことが気にならなくなるとかそういうことも重要かも知れないと個人的には思う。ともあれ最近やっと申し訳ないなという気持ちに自然になりながら、それでもやはり自分はこれをやっときたいので、という形で誰かをちょっと手伝ってあげるようなことができるようになった。
でもその女性だけど商品を買ってテーブルに着くまではどうしたんだろう?お店の人とかが手伝ってくれたりしたんだろうか。それともひとりでなんとかしたんだろうか。もしテーブルに着くまでお店の人が手伝ってくれたんだとしたら彼女が席を立つときまでなんとなく気にして見守ったりはしてくれなかったんだろうか。そういう風に想像が働くとこの世でできる善なんて大したもんじゃないという親鸞の言い方に深く納得させられる。本当の意味で誰かに善を施すなんて不可能なのかも知れない。