指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

反抗期の構造。

子どもが親の言うことを聞かないとか、逆らうとか、刃向かうことを称して反抗期と言う親御さんは多い。でも親子の仲がうまく行っていないことの免罪符のようにこの言葉を使ってるんじゃないかと思われることもある。もし親がある一定の要件を満たした場合、反抗期というのは無くすことができるんじゃないかとさえ個人的には考えている。少なくともうちの子にこれまで反抗期は無かったしこれからも無いと思う。
僕自身に反抗期があったかと言えばこれははっきりとあった。随分遅く、高校生になってからだった。きっかけは大学進学でその頃の思いで今でも忘れられないものがある。いい大学に行って欲しいのはお前のためだと親は言うが、それはほんとは自分たちのためなんじゃないか、というのがその思いの正体だった。もっと普遍化すると、親の言う「お前のため」には、「自分たちのため」が必ず含まれているはずなのに、親はそこをごまかして「お前のため」だと強弁するものなんじゃないかということだ。その自己欺瞞の感じがすごく気に入らなかった。だから僕はそのことについて何年も何年も考えた。そして親の言う「お前のため」に「自分たちのため」がまったく含まれていないことは、理屈の上では証明できないという結論になった。逆に言うともし自分が親になって子供に対して「お前のため」にどうこうしろという指示を与えたとき、そう言うのは子供のためではなく少なくとも幾分かは親自身のためなんじゃないかと子供の側から疑いを挟まれたら、そうではないと断言することは親の立場としては不可能ということになる。すると、子供に対する態度はふたつしか無くなる。ひとつは子供のためと言うけどそれは親のためじゃないかと子供に言われたら、それを否定することはできないとはっきり認めること、もうひとつは初めから子供に「お前のため」という言葉を使わないことだ。個人的には後者を選んだ。もちろん親だからいろいろなことを「子供のため」にする。でも考えようによってはそれらはやって当然のことなのでわざわざ本人に向かって「お前のため」にやっていると言う必要も無い。そう考えれば子供に向かって「お前のため」と言うこと自体が、どこか不自然で極度に意図的な行為に思えて来る。その言葉自体がまさに、「子供のため」ではなく「親のため」にあるのだ。
親は子供が育つにつれて絶対から相対に格下げされる。親のすべてが正しいという絶対性はいつかどこかで、親だって間違うことのあるただのひとりの人間なんだという風に相対化される。それは正しい成長の道筋のように思われる。問題はそうなったとしても親側が過去の栄光を忘れられず子供に対して絶対的に振る舞おうとすることだ。自分たちは「お前のため」にこれまで膨大なことをして来たし、これからも「お前のため」にたくさんのことをして行く。なのになんでお前は親の言うことを聞けないんだというのがその言い分になる。でも相対化された親に子供が求めるのは、ひとりの人間対ひとりの人間という共通した地平上にある、ある種の公正さだ。自我どうしがぶつからなくて済むように用意された、お互いを認め合うといういちばん最初の儀式だ。それを欠いた親の姿を見るとき、子供の見開いたばかりの目はそこに不公正さやもっと進めば親の自己欺瞞を見出す。すべての反抗期は、この不公正さや自己欺瞞とそれに対する子供の恨みに端を発するんじゃないかと僕は思っている。子供を反抗期に追いやるのは他ならぬその子の親なのだ。それは愛情の強弱とは関わりが無い。問題は親が子供の求める公正さにどれだけ応えることができるか、言い換えれば親の持つもうひとつの公正さの有無なのだと思う。
どこへ向かうかわからずに書き始めたけど、割と納得の行く落としどころが見つかってよかった。僕は子供にも自分にも嘘をつくまいと心がけて子育てをして来たことにはかなりの自信があるし、同様に子供に対してできるだけ公正であろうとして来たし今もしていることにも同じくらい自信を持っている。そしてそれは自分の反抗期に傷ついてその傷をごまかしさえしなければ、誰にでもできるはずのことだと思う。子供の反抗期に悩む親御さんにほぼまったく同情しないのは、おそらくそのためだと思う。