指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

作者からの答え。

「バラの名前」覚書

「バラの名前」覚書

前にも書いたように随分前に読んだので「薔薇の名前」については忘れていることも多い。その中でもふたつ大きな疑問があった。ひとつはおそらくホルヘ・ルイス・ボルヘスがモデルに違いない作中人物ホルヘ・ダ・ブルゴスがなぜヴァスカヴィルのウィリアムと対立するいわば悪の姿として描かれているのか。おそらくいかようにも自由に思考することができたはずのボルヘス、それを元にした人物がなぜこれほどまでに狭量なのかということだ。もうひとつは14世紀を舞台にしている割には登場人物たちの思考法があまりに近代的過ぎるのではないかということだ。中世の思考法がどんなものか想像もつかないが今とは随分異なるものであったに違いない。ところが戒律的な不自由さを別にすれば現代人と同じような風通しの良さで誰もが考え発言しているように見える。果たしてそれは妥当なのか。
前者についてはあっさりとこうある。

(前略)みんなから私がしょっちゅう質問されることは、私のホルヘがその名前でもって、ボルヘスを暗示するのはなぜか、また、ボルヘスがあれほど邪悪なのはなぜか、という点である。私には分からない。(後略)

後者についても以下の通りだ。

(前略)
とにかく、一つのことが私を大いに楽しませたのだった、―或る批評家なり或る読者なりが、私の修道士たちの一人があまりに現代的な考えを表明していると書いたり言ったりするたびに、実際には、まさにこれらすべての場合において、私は十四世紀のテクストから文字通りに引用していただけだったのである。(後略)

作者は「実際、私にはありとあらゆる種類のテクストからの極めて多数のファイル・カードや、ときには、本のページ、フォトコピーが無数にあったのだ―その後、利用したよりはるかに多く。」とも記している。もちろん引用部分が中世のものであっても引用のしかた次第では現代の思考法をミックスできるのではないかとの疑問も残るが、ひとまず作者の言を全面的に信じることにすれば中世的な思考とは近現代とかなり近いのかも知れないし、実際作者は別の場所でその可能性を示唆している。
でもそんなことが明らかにされたところで「薔薇の名前」もしくは「バラの名前」(この表記の違いについても思い当たる節が明らかにあるのだが、それは本書の「訳者あとがき」をご覧下さい。)の読解に役だった気は全然しない。ただこの作品を読み返す気があるのかという自問だけが残る。最後に忸怩たる思いにとらわれた以下の部分を引用させていただく。

(前略)
ある小説に入り込むのは、山登りにかかるようなものである。呼吸のリズムを学び、ペースを整えねばならない。さもなくば、やがて息を切らし、とり残されるであろう。(後略)

出典はすべて『「バラの名前」覚書』による。