指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

途中経過。

  ここ一ヶ月で「ダンス・ダンス・ダンス」、「国境の南、太陽の西」、「ねじまき鳥クロニクル」、「スプートニクの恋人」、「海辺のカフカ」と村上さんの長編を読み進めて来た。間に「村上T」と高橋源一郎さんの「「読む」ってどんなこと?」も読んだ。結構な冊数だ。ひと月でこれだけ読んだのは大学生のとき以来かも知れない。「村上T」の中ではひとつだけ「Dance Dance Dance」のTシャツは欲しいなと思った。アメリカの出版社のノベルティーということで佐々木マキさんの表紙の絵がモノクロで胸にプリントしてある。作者ご本人にはなかなか着づらいだろうけどファンなら着てもいいんじゃないかと思う。欲しい人も結構いるような気がする。高橋さんの本は池袋の三省堂書店では新刊書ではなくNHKのテキストの売場に置いてあって検索機で探さなければならなかった。
 ひとりの作家の作品を時系列で次々に読むというのは物故した作家の全集を読む場合を除いてあまりやったことがない。でもそれはとても有意義な読み方のような気がする。特に何年かごとに作品を刊行する作家の場合、新作を読む段階ではその前作や前々作のことはあまりよく覚えていないということがあるからだ。まとめて読むと作品どうしの共通点とか相違点とかここが前作より思索の深まった箇所かなとかそういう観点から作品を眺めることができる。たとえば「ねじまき鳥クロニクル」に出て来る「壁抜け」のシーン。あれは考えようによっては夢と位置づけることもできなくはない。少なくとも夢として読んでもまったく不都合はない。夢の中の行為が現実に反映されるという事態は作品の中ではしばしば起こりうるからだ。でもこれが「スプートニクの恋人」になると事情が異なって来る。すみれが「あちら側」に行ってしまったのは一種の「壁抜け」によるものと思われるがしかし「壁抜け」によって「あちら側」に行ってしまったのは「ぼく」から見れば他者であるすみれだ。他者の「壁抜け」が「ぼく」の夢によるものである訳がない。するとすみれの夢がどういう理路を通ってか世界全体を巻き込んで彼女の消滅を実現させたという風にも読める。すみれの「壁抜け」は「ねじまき鳥クロニクル」の僕の「壁抜け」より一段階複雑になっている。と、そんな風な視点が持てることがまとめ読みの効能になる。
 ところで夜中に音楽が聞こえてきて目を覚ました「ぼく」はおそらくすみれが体験したのと同じ「壁抜け」の機会に見舞われる。でも彼は身を固く閉ざしてそれをやり過ごしてしまう。すみれを追って「あちら側」に行くことを拒否した訳だ。そのことを何日か後で、それ(「あちら側」へ行くこと)を本当には望んでいなかったと述懐している。彼は「こちら側」に留まったままですみれを奪還したかったように見える。そして「ガールフレンド」(すみれとは別の女性)に別れを告げることによっていけにえの血を流しすみれは戻って来ることになる。最後でほんとにすみれは戻って来たのだろうか。個人的には戻って来たと思っている。初めて読んだときもそう思ったし今回読み返してみても同じ印象になった。