指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

リモート懐妊。

 未読の方にはネタバレになるのでお気をつけ下さい。
 「1Q84」で天吾はふかえりと交わることによって遠隔地にいる青豆を懐妊させている。これを「壁抜け」の一種と考えることもできるかも知れない。ただそこは空に月がふたつある「空気さなぎ」≒1Q84年の世界なので昏睡状態にある元NHKの受信料集金係が現実のドアを執拗に叩いて支払いを迫ったりといった超常現象もあり、そんなリモート懐妊も多少は許容されるかなといった雰囲気もないではない。青豆はお腹の子の父親が天吾であることを悟りどこまでもその子を守り抜くことを決心する。青豆にとって、また天吾にとってもこの懐妊は善き懐妊だった。ところがこのリモート懐妊は「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」でも現れる。そしてこの場合懐妊したシロは主人公のつくるから強制的に性交させられたと思い込んでいる。このためアオ、アカ、シロ、クロ、つくるの、高校時代からそれまで数年にわたって奇跡的に仲のよかった五人グループから何も知らされないままつくるは拒絶される。このことがつくるに大きな心の傷を与えそれが物語の発端になる。しかしシロのつくるに対する証言をつくる自身が知るのはそれから十六年後だ。そしてそれを聞かされてももちろん彼には身に覚えがない。ただグループから排除された後の十六年の間につくるはシロと性交する夢を何度も見ている。従って夢を介しつくるは時系列に逆らってシロを懐妊させたのかも知れないという可能性が出て来る。そしてそれは悪しき懐妊だった。青豆と天吾の場合とは正反対に。でも1Q84年ならざる世界でそんなことは可能なのか。
 さらにこのリモート懐妊は次の「騎士団長殺し」でも繰り返されることになる。まだ読み返してないので少し前の記憶に頼るとこの場合は善き懐妊に戻っている。いずれにせよ長編三作連続でこの主題は繰り返されどの作品においてもお話の上で重要な位置を占めている。そういう意味でもリモート懐妊は「壁抜け」の変種と言っていいように思われる。これをどう解釈すべきなのか。
 それをとても的確に言い表したくだりが「色彩・・・」の中にある。

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 それからつくるはもう一度眠りに落ちたのだろう。やがて彼は夢の中に目を覚ました。いや、正確にはそれを夢と呼ぶことはできないかもしれない。そこにあるのは、すべての夢の特質を具えた現実だった。それは特殊な時刻に、特殊な場所に解き放たれた想像力だけが立ち上げることのできる、異なった現実の相だった。
色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」p116
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 こう言われるとそれは作者の多くの作品に共通して登場する「相」を指しているように思われる。それは「羊をめぐる冒険」であり、「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」であり、「ねじまき鳥クロニクル」であり「海辺のカフカ」でありもちろん「1Q84」であるように思われる。あるいは「一人称単数」と言ってもいい。ちなみにこの後つくるはシロとクロのふたりと性行為を行う夢を見ている。同じような表現はその後にも登場する。

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(前略)まるで部屋そのものがひとつの意思を持っているかのようだ。その中にいると、いったい何が真実で何が真実でないのか、彼(引用者注、つくるのこと)には次第に判断がつなかくなってきた。ひとつの真実の相にあっては、彼はシロに手を触れてもいない。しかしもうひとつの真実の中では、彼は卑劣に彼女を犯している。自分が今いったいどちらの相に入り込んでいるのか、考えれば考えるほど、つくるにはわからなくなってくる。
(後略)
「同」p229
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 それは真実か夢か、とか、真実か想像か、とか、真実か可能性か、とかいう二項対立ではない。ひとつの真実の相かもうひとつの真実の相か、という対立だ。あるいはそれは対立でさえないのかも知れない。ふたつの異なったパラレルに並ぶ等価値の真実なのかも知れない。そう考えるときこの作者の作品の核心にとても近づいたような気が個人的には強くする。乱暴に言ってしまえばこの現実は「壁抜け」のできる現実かできない現実かのふたつなのだ。そして作者は常に「壁抜け」のできる現実について物語っている。個人的には作者の作風を一貫してファンタジックだと考えてきたけどおそらくその根拠はここにある。でもそれは作品内ではファンタジーではない。それはもうひとつの現実と見なされている。
 巡礼の後でもつくるは以前の自分をそれほど乗り越えていないように見える。確かに謎は解けたが彼自身救われてはいないように見える。もしほんとに救われていたら彼は沙羅を信じることができたに違いない。彼女が彼にとって唯一の導き手だったのだから。