指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

「東京奇譚集」。

 「東京奇譚集」は刊行されたときに読んでる。2005年9月のことで子供は四才になったばかり、まだ幼稚園には通っていず毎朝近くの公園に行ってはぴったり二時間遊ぶまで家に帰らなかった。親にとってこれは結構きつかった。週日は家人が土日と祝日は僕がそれにつき合った。幼稚園に入るまで子供をひとりにしたことはなく寝てるときを除けば家人か僕かその両方かが必ずそばについていた。だからあまりよそ様のことは言いたくないけど子供をひとりにしておく親の話をニュースなんかで聞くとなぜそんなことができるんだろうと不思議に思う。僕なら心配でいてもたってもいられないと思うんだけど。
 閑話休題、それから2009年に出た「めくらやなぎと眠る女」にも「東京奇譚集」の全編が収録されていたと思うのでそこでも読んでるはずだ。つまり最低二回は読んでることになる。でもこのブログを読み返すとなんか薄い感想しか書いてない。おもしろかったのはおもしろかったらしいんだけど。
 それが今回は一編目の「偶然の旅人」を読んで泣き二編目の「ハナレイ・ベイ」を読んでもっと泣いた。
 「偶然の旅人」で主人公が体験した不思議なこと、言わばシンクロニシティーはただひとつでそれは耳にほくろのあるふたりの女性とそのふたり共が乳がんだったという事実だ。主人公がゲイであることがそのふたりを傷つけることになる。でも例によって悪いのは誰でもない。主人公には主人公の切実さがあったし女性たちにもそれぞれの切実さがあった。そしてそのシンクロニシティーをきっかけにして大きな和解がもたらされる。僕の心を強く打ったのは主人公の抱えた切実さだった。彼は自分をゲイだと認めることによってやっと本来の自分になれた。それまでは本当につらかっただろうなと思うと涙が止まらなかった。
 「ハナレイ・ベイ」の主人公の女性は外からは本当にタフに見えるんじゃないかという気がするし実際あるところまでは相当タフなんだと思う。でももちろんその中にも悲しみはある。この作品で起こる不思議なこともたったひとつだ。でもそれが彼女の悲しみによりくっきりした形を与える。そしてそうした悲しみを抱えながらも人は生きて行かねばならない。ひたむきに、でもなんでもないことのように。最後の数行を読んで泣けて泣けて仕方なかった。
 三編目「どこであれそれが見つかりそうな場所で」。なんかレイモンド・カーヴァーっぽいタイトルに思うのは僕だけだろうか。
 これは前の二作とは明らかに趣を異にしている。テーマは「壁抜け」の一種と言っていいんじゃないかと思う。長編での「壁抜け」はどの場合も現象としてそう描かれるだけでその構造を客観的に跡づける視点というのはなかった。ここでの語り手「私」の存在感の不思議さは、読みようによっては「壁抜け」を専門にしかもボランティアで調査し「壁抜け」を実現させる「ドアだか、雨傘だか、ドーナッツだか、象さんだかのかたちをしたもの」(単行本p119からの引用)を探している人物という位置づけの不可解さから来ている。つまり彼が割と血まなこになって探しているのは「壁抜け」の痕跡でありなろうことならその痕跡をどんな手段でか再び活性化させ「壁抜け」を追体験したりもっと進んで常態化させたりしたい意図が隠されているように見える。そこでは「壁抜け」は既定のものであり既知のものであり存在するのが当たり前な大前提なのだ。でもそう考えるとこの作品は「壁抜け」外伝みたいな形にのみ許される楽しい思考実験のようにも思える。それは「壁抜け」の発案者にしかできない知的な遊びと取ってもいい気がする。そういうところが前の二編と全く異なった印象を与える根拠になっていると思う。もちろん「壁抜け」の全貌は未解明なままだけど。
 「日々移動する腎臓のかたちをした石」。ここには作者の短篇小説を書くときの作法のようなものがそうはっきりとではないけど伺える気がする。特に腎臓石が彼女に揺さぶりをかけてるんじゃないかというくだりは興味深く、ちょっと目が覚める思いがした。ラスト・シーンは作中作「日々移動する腎臓のかたちをした石」の主人公が何かから解放されることとその筆者が何かから解放されることとの両方を意味している。
 「品川猿」はひとりの女の子の自殺が主人公に及ぼした目に見えない影響を象徴的に「品川猿」という形に置き換えたものに見える。しかもその影響は彼女の無意識にある大きな傷をあぶり出すことになった。一見なんでもないような出来事の裏にかなり深刻ないきさつが隠されている、その物語のダイナミズムが魅力のように思われた。
 特に最初の三篇はこれまでより立体的に読めたような気がする。そのせいもあってか今までよりもずっと深く心に残る読後感だった。