指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

物語の豚。

 たとえば僕の目にドラクエというゲームは次のようなものに映っている。1.先に進むのを妨げる障害物が現れる。2.その障害物を排除する方法について情報を得る。3.情報に従ってしかるべきミッションを遂行する(その際にダンジョンがあったり、中ボスが出て来たりする。)。4.先に進めるようになる。あとはこのプロセスの繰り返しだ。たいていのRPGはそんな風にできてると思われる。でもミッション・クリアは実は主人公達が先に進めるようになるという意味以外にも必ずもうひとつ別の意味を担っている。それはドラクエという物語上の意味だ。たとえばあるミッションは村でいけにえにされそうな若い娘を助けるためにとか別のミッションはすでに死んでいるのに思い残すことがあって天国に行けずさまよってる魂を成仏させるためにとかいったことだ。先に進むための意味を仮に「プレイヤーの物語」ドラクエの物語上の意味を仮に「ゲームの物語」と呼ぶとすると僕はほとんど前者でしかドラクエをプレイしてない。それで充分スリリングだし楽しいし達成感もある。そして誰もがそれで満足してるものと無意識に思い込んでいた。ところがあるとき家人が「ゲームの物語」をかなり克明に覚えてることに気づき頭の中で軽く花火が炸裂したくらいびっくりしたことがある。あるミッションがどんな状況にある誰をどのように救うためのものだったかということとその成り行きそれからその際に登場したキャラクターの名前なんかをほぼ完璧に記憶してるらしい。だからあのエピソードはこういう展開でかわいそうだったとか切なかっただとかいう情緒も頭の中に保存している。つまりドラクエというゲームを本を読むように一編の物語として読んでいるということのようだ。それは物語に対する感応度がたとえば僕なんかよりも格段に高いことを意味しているように思われる。家人を物語の豚と呼ぶ由縁だ。
 そしてその感応度はおそらく物語を自ら語る上でもとても有効なものに違いない。常にきめ細かく物語の成り立ちを追う習慣を持ってるということは。そしてそこからどんなときも豊かな情緒を汲み上げているということは。だからこの人は物語を語るべくして生まれて来たんじゃないかと思うことがときどきある。物語に耽溺できる資質を持つからこそ自らの語る物語に誠実でいられるし物語に誠実であれば嘘のない物語を語ることができるような気がする。
 そういう資質を一切評価されない環境で育ったので割につらい思いをして来たと家人は言う。僕もヲタだったのでその気持ちはほんとによくわかる。そしてだとしたら僕と一緒にいることは彼女にとって随分救いになるんじゃないかと思う。いささか手前味噌ながら本気でそう思っている。