指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

思い出したくもないこと。

 事の起こりは中一の生徒さんの母親から来たメールだった。塾の数学の授業が全然わからないと言っているとある。それで塾を始めて八年になろうとしてるけど授業がわからないと言われたことは一度もないと返す。すると方針を立ててそれに沿って解説してくれればわかると言ってると返って来た。テキストの解説をしてから問題を解いてもらってその問題の解き方を解説して一問毎に質問がないか尋ねているが他にどんな方針の立て方が必要なのか具体的に教えて欲しいと返すとしばらくしてからさすがに折れて出て来てそれでいいと思うと返信があったのでこの話はひとまず収まったかのように見えた。余談ながらこう書いて来るとわかりやすいすっきりした話のように思えるかも知れないけどここに再録するのはさすがに控えるけどなにしろ文面がひどくて何が書いてあるか探り当てるのに相当手間がかかる。家人に読んでもらったら読みづらくてやだ何言ってんのこの人と言って途中で投げ出す。こちらは生活がかかってるのでそういう訳にも行かず苦労して言わんとするところを汲み取る。割に大変だった。
 それから少ししてもう少し厳しい塾に入れたいので塾を辞めさせたいとメールが来た。(このメールは内容がシンプルで比較的わかりやすかった。)実はこの生徒さんは数ヶ月前に入ったばかりでうちに通ってなかった頃の学習が相当怪しいことがわかったので他の生徒さんと一緒の授業の他に一対一の授業を週一でおこない中一の学習内容を最初からやり直していた。ところが何度解説しても同じ間違いを繰り返すので間違いにはしていいものといけないものがあって君の間違いはやってはいけないものだからとにかくきちっと理解して身につけるようにとかなり厳しめに言っていた。だからもう少し厳しい塾と言うが最近かなり厳しく指導をしていてそれが嫌でやめたくなったとしかこちら側からは見えない、だとしたら厳しい塾に入れるのは逆効果だと思うと返信した。そしたらこのメールが何かのスイッチを押したんだろう、厳しい塾というのはお宅と違って確かな方針のもとに指導してくれる塾のことだと当てこすりめいたことを返して寄越す。(このメールはひどく感情的かつ礼を失したものだったので逆にわかりやすかった。)方針の話は決着が付いたと思ってたのに本当はまるで納得してなかったらしい。しかし方針方針と言われてもそれが具体的にどんなことを指しているのかが皆目見当がつかない。なんかまぼろしでも見てるんじゃないかと思えてならない。そしてここに至ってこの人とはこれ以上関わり合いにならない方がいいという結論になった。自分でもそれが具体的にどんなことなのか想像できてないのに言葉の上でだけあたかもそれが実在するかのように信じ込んでしまうケースというのは起こり得る。今回の場合この人は自身の言う「方針」がどこかに存在することを信じ込んでしまっている。そういうのは一種の狂信者みたいなもので理屈で言い聞かせても到底納得させられないしだから説得しようという試み自体が無駄だ。頭の上にぽっかり浮かんだ実態のないまぼろしを勝手にどこまでも追いかけて行ってもらうしかない。メールの文面の非礼を指摘してもよかったんだけど火に油を注ぐだけに思えたのでじゃあどうぞ辞めてくれと書いて送った。返信は今のところない。
 言葉は悪いけど頭の弱い親と心の弱い子という組み合わせは親子のあり方としてたまに見かけるパターンのひとつのように思われる。とか書くとどこからかお叱りを受けるだろうか。でも経験的に言ってこれは正しいような気がする。頭の弱いというのはこの場合物事を客観的に捉えられないことを意味する。心の弱いというのは具体的には自分の嫌いなことに立ち向かえないという意味だ。苦手なこと嫌なこと嫌いなことに立ち向かう力を持てない子というのは一定の割合で見受けられる。(それが正常な心の状態に留まるか病態にまで踏み込んでいるかの判断は難し過ぎて僕の手には余る。)その親のすべてが物事を客観視する力が弱いかと言えばそこまで言い切る自信はないんだけど少なくとも何組か実際にそういう親子を見かけて来た。憶測だけどそういう親は強力な主観で子供を押さえつけその力は子供から見たらちょっと理不尽なほど強くて抗いようがないので子供としては自己肯定感を持てないまま物事に立ち向かうために必要な自信を失うしかなくなるんじゃないだろうか。ちょっとお誂え向き過ぎるかも知れないけどもしかしたらそういう物語もあり得るんじゃないかと考えている。
 書く前は思い出したくもない不快な話だと思ったのでそういうタイトルにしたけど書いてみたら随分気持ちが落ち着いた。トニオ・クレーゲルが言うように言葉には感情を氷の上に乗っける働きがあるのかも知れない。あるいはそれほど高級な話ではなくただ単にその親をちょっと上から見下ろす視点に立てたので気分が楽になっただけかも知れない。いずれにせよ書いてみるといろいろ整理がつくケースというのは多い。