指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

カーペンターズにさよなら。

 1983年つながりで言うとこの年の初めカレン・カーペンターが32歳で亡くなっている。拒食症だった。その訃報をどうやって受け止めたのかよく覚えていない。気持ちとしては自分の中のカーペンターズはすでに終わっていたのかも知れない。
 カーペンターズに出会ったのは他の多くの洋楽のアーティストと同じ1974年、小五のときだ。ラジオで聴いた「プリーズ・ミスター・ポストマン」が最初だったんじゃないかと思う。それから「緑の地平線」というアルバムのカセットテープ版を買ってもらってモノラルのすごくちっちゃなカセットプレイヤーで繰り返し聴いた。前後関係はあやふやだけどこの学年のとき猩紅熱から急性腎臓炎を患い入院することになった。医師は母親に治るまでに半年かかるか一年かかるかわからないと言ったそうで両親も僕もそれなりの覚悟をした。入院生活について覚えていることは少ない。塩分を控えなければならない病気なので食事は味が薄かったはずなんだけどそんなことも覚えていない。小児病棟の八人部屋でベッドは全部埋まっていた。全員男の子だった。ネフローゼの子は顔がむくんでいた。他に慢性腎炎や僕と同じ急性腎炎の子もいた。みんなもう長いこと入院しているようだった。ひとり小一の子がいて夜が近づくとよく泣いた。僕も泣きたかったけどさすがにそれは我慢した。どういう薬か知らないけどビタプレという名前の確かオレンジ色のうっすら甘い粉末を日に何度か飲んだ。その他に治療と言う治療は受けなかった。安静にしてるしかないのだ。ところがたった三週間で容態は劇的に良くなり明日退院だと医師に言われた。うちに電話して翌日本当に退院となった。
 快気祝いに父親が忘れもしないListen 1000というソニーのコンポを買ってくれた。アンプとプレイヤーとふたつのスピーカーという構成だ。スピーカーにはコーンがふたつずつついていて音と共に振動するのがはっきり見えた。それまでのカセットプレイヤーに比べるとこれは信じられないほど音がよかった。音の良し悪しというのを知ったのはそれが初めてだった。それでカーペンターズの四枚組のベストアルバムを買ってもらって繰り返し繰り返し聴いた。今実家にはそのコンポはもうない。だいぶ前に壊れてしまったので処分された。同時に僕が小学生から高校生まで折に触れて買った何枚かのレコードも処分されてしまった。だからその四枚組のタイトルリストは今となってはもうわからない。ウェブで何度か調べたんだけどこれは日本で選曲されたものらしい上にキャリアの途中で出たベストなのでキャリアが終わった後に出されたベストには道を譲る運命にあったらしい。そんな中途半端なベストをわざわざCD化する意味も必要もないということだろう。でも考えてみるとその四枚組を再現することになんてどれほどの意味があるんだろうと我ながら思う。懐かしいことは懐かしいかも知れないけどあの頃のように熱心に聴くだろうか。たぶん聴かない。カーペンターズは僕にとってもう終わってるからだ。
 ところでうちの母親はいらなくなった物を結構がんがん捨てる。コンポやレコードはもとより上京のときに持って来なかった本や子供の頃読んだ絵本なんかも捨てられてしまった。父親が転勤族で辞令が下りると一週間以内に引っ越さなければならない。だから母親は強迫神経症みたいに常に身軽であることを心がけて生活して来た。レコードと絵本については今ではもう手に入らない物もいくつかあったのでそれは惜しい気もするけどだからと言って母親をうらむ気にはなれないのはそのためだ。
 カーペンターズについてはもうひとつ忘れられない思い出がある。中一のときだったと思うけど武道館のコンサートに行った。当時はすごい人気だったのでチケットを取るのも大変だったと思う。どのように入手したのかも覚えていない。父親が割に顔の広い人だったのでどこかでうまく手を回してくれたのかも知れない。ステージの裏側の席で終始彼らの後ろ姿しか見えなかったけどそれでもとても満足だった。
 そうして束の間ディスコ・ミュージックを全身に浴びて大きな影響を受けることになる年の初めにカレン・カーペンターが亡くなったのは個人的にはなにか象徴的な出来事のように思われる。ひとつが終わりもうひとつが始まる。それにしても32歳はあまりに若過ぎる。