指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

感慨深い。

 明日と言うか後一時間足らずで子供は二十歳になる。もう二十年も経ったのか。出産のときの話は十六年も前にこのブログに書いている。ご興味のおありの方は「8月に生まれる子供」でブログ内検索なさってみて下さい。でも結構恐い話みたいなのでそういうの苦手な方はご遠慮いただいた方がいいかも知れません。生まれて以降はどうすれば子供のためになれるかを考え続けた二十年だったような気がする。それはまたどうすれば家人のためになれるかを考え続けた年月とも言い換えられるかも知れない。子供の育て方について家人と意見が対立したというのは本当にわずかでそうなるとあとは子供に対して具体的に何をしてあげるかという問題しか残らないので僕が余分に何かをすればその分家人の手間が省けるという構造がずっと続いて来た。だから子供のためにと家人のためには僕の中ではほとんど同義だ。そしてそのふたつが同義であるということは本当に幸せなことなんじゃないかと思う。申し訳ないけどこの点ではうちは幸せな家庭だと思う。その、貧乏ではあるけどね。
 その幸せの元は何かと大変僭越ながら考えると想像力とある程度の考えの古さじゃないかと思う。想像力が乏しければそもそも思いやりが乏しくなる。相手の痛みを自分のもののように感じる、というのはもしかしたら不可能かも知れないけど、それに近づいて行くことはできるし大切なのは近づいて行けるかどうかではなく近づいて行こうという意志だ。それがあればおそらく決定的な失敗は避けられると思う。ある程度の古さというのはあまりに個人に分断されていないということだ。これも最近のブログを見てて思うことだけど皆さん自分の欲望を肯定しすぎる。共同の生活を成り立たせるためには個人は過度に個人でいない方がいい。少し昔の譲り合いみたいな考え方がある方が家庭を円満に続けて行けると思う。ドストエフスキーは気に入らないかも知れないけど文学なんかより生活の方が大事に決まってる。