指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

スタッフさんに話しかけられる。―村上春樹ライブラリ-四回目。

 村上春樹ライブラリー四回目の訪問。午前10時20分頃入場し「全作品」の六巻目を手にいつもの席に座る。六巻目に収録されてるのは「ノルウェイの森」。「自作を語る」にはこの作品の成立過程や意図などが作者によって語られている。読んでて本当に興味深く楽しい。せっかくメモ帳を買って行ったので面倒にならない程度に抜き書きする。たとえばこんな一節。

 僕がここで本当に描きたかったのは恋愛の姿ではなく、むしろそのカジュアルティーズの姿でありそのカジュアルティーズのあとに残って存続していかなくてはならない人々の、あるいは物事の姿である。成長というのはまさにそういうことなのだ。それは人々が孤独に戦い、傷つき、失われ、失い、そしてにもかかわらず生き延びていくことなのだ。(「村上春樹全作品 1979~1989 第6巻」 「自作を語る」より。原テキストでは「にもかかわらず」に傍点が付されている。)

 「カジュアルティーズ」については作者の括弧付き説明もある。

 (うまい訳語を持たない。戦闘員の減損とでも言うのか。)

 すごくよくわかる。ワタナベ君もレイコさんを見送るときに言っている。我々は生きていたし、生き続けることだけを考えなくてはならなかったのだと。あれ読んだときは感動したなあ。
 「ノルウェイの森」というタイトルについて作者にはかなり思い入れがあるようだ。その思い入れについては正直共感することができなかった。時代の差ということもあるんじゃないかと思う。ただタイトルの案を知らせずに奥様に読んでもらってどんなタイトルがいいか尋ねたら「ノルウェイの森」でいいんじゃないと返されたというお話はおもしろい。しかもその段階で奥様はこの曲を聴いたことがなかったというのもすごい。もっとも前にも書いた通りこの作品を読むのにビートルズのその曲を知ってる必要はないと思うけど。
 読み終えると丁寧に箱にしまってから並んでた場所に戻す。それから七巻目を手に取り元のいすにかける。七巻目は「ダンス・ダンス・ダンス」が収録されている。流れとしては「羊をめぐる冒険」を書いた後一応この物語はここでおしまいということにして長編としては「世界の終わり・・・」、「ノルウェイの森」と書き継いだ。そこでもう一度鼠三部作の「僕」を主人公にしようと思ったということになると思う。理由はとにかく書きたかったからということのようだ。そこでは羊男の存在がとても重要な役回りを演じている。

 僕は羊男を描くことによって羊男というものの存在をなんとかもっと明確に規定したかったのだ。そしてそれはある意味では僕が僕自身を発見することでもあったのだ。(「村上春樹全作品 1979~1989 第7巻 「自作を語る」より。)

 羊男は作者の無意識の何かを色濃く背負って生まれて来た。だから羊男を解明することは作者が自分自身を解明することと同義だったということになると思う。ちなみにこの作品は思い悩むことなくとても楽しく書かれたということだ。
 ここでまた本を丁寧に箱にしまって立ち上がり後ろの書架に戻そうとしたとき近くに立っていた女性のスタッフさんに声をかけられ随分熱心に読んでるが前にも来たことがあるかと尋ねられた。もしかしたら以前にも目に留めてもらってたのかも知れない。確かにいつも脇目もふらずに読みふけってたしそういう客は割に少なくて目立つ気もするから。たいていのお客さんの目的は展示物を見て回ることにあるんだろうし。四回目だと答えると何を読んでるか尋ねられたので村上さんの作品は大体全部持ってるので「全作品」は必要ないんだけど作者の解説が入ってるのでそれを読みに来てると答える。それは他では読めないのかということだったのでまあ他の図書館でも読めないことはないかも知れないとは思ったんだけど一応読めないということにしておく。ここはとても居心地がいいので来てるということも付け加えればよかったかな。少しは喜んでもらえたかも知れない。話しかけられて緊張したのかいろいろ気が回らなかった。難しくないかと尋ねられたときはそれが村上さんの作品が難解じゃないかと尋ねてることに気づくまでちょっと間が空く。それで一冊はまってしまえばなんとかなると思うと答える。初心者だがお勧めはあるかということで個人的には「世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド」に一発ではまったので勧めたいと答える。読んでみると彼女は言う。おもしろかったと思ってもらえるととてもうれしい。あと村上さんの作品は四十年近く読んでるという話もしたな。どのタイミングだったか忘れちゃったけど。
 彼女の言葉を一言一句正確に再現することができないので英語で言う間接話法を使うことにした。その結果会話が必要以上に淡々としたものに感じられるかも知れない。でもこのときの会話はお互い好意に満ちたとてもあたたかなものだったということを付け加えておきたい。僕は彼女に話しかけてもらってすごくうれしかったしなるべく誠実に答えようと心がけた。彼女には感謝している。館を出るとき出口近くで見かけたので入館証を渡してまた来週来る旨伝えた。
 それから地下への階段についてひとつ。初回に家人が転げ落ちそうになったお話はすでにした。次に行ったときか前回かに階段の上にスタンドのついたA4サイズくらいのパネルが設置され段差に気をつけるよう注意書きされていた。そしたら今回は館に入る前に検温してくれる係の人がブルータス誌の階段本棚が写った表紙を見せてこっちとこっちの段差が異なるので注意するよう口頭で伝えてくれるようになっていた。やらかしちゃった人が結構いるのかも知れない。家人は目が悪い人には距離感がつかめなくて厳しいと言ってたけど確かにあれは危ないかも。おしゃれはおしゃれだけどね。