指栞(ゆびしおり)

すまじきものは宮仕え。

ことの顛末。

 禁煙してもう十年くらい経つ。以来たばこの匂いがとても嫌いだ。これはたばこを吸う前よりももっと嫌いになってるんじゃないかと思う。禁煙に成功した人の中にはそういう例が多いんじゃないかと想像する。もう生理的に駄目で道なんかで吸ってる人がいたら遠回りして避けるほどだ。何度か触れたおいしいラーメン屋さんもちょっと前まで喫煙可だったのでそれがいやで行かなかったりした。大体人が食事してるのにそのそばでたばこに火をつける神経がわからない。自分が吸ってるときでさえ食事の席では吸わないくらいの配慮はしてた。
 今年の夏に隣に越してきた人が喫煙者でうちのドアの前は濃いたばこの匂いで充満した。部屋の中で吸うだけでなく吸いながら階段を上ったり下りたりするらしい。うちのビルは各階二世帯分の部屋しかなくてうちは最上階だ。階段には窓があって大体常時開け放たれているんだけど最上階の窓だけは防犯上の理由ということで施錠されてて開かない。それを開けるとお隣の部屋のベランダが目の前で容易に飛び移れてしまうという話だった。とにかくその窓が開かないのでたばこの匂いはどこへも抜けて行かない。個人的には最悪の事態と言ってよかった。不動産屋にクレームのメールを打つ。窓を開けるなり階段は共用スペースだから禁煙にするなりなんとかしてくれというのがその要旨だった。すると大家さんに話してお隣の人に注意してもらったという返事が返ってきた。馬鹿かお前は。そんなことひと言も頼んでないだろうが。大体部屋の中でたばこを吸うこと自体は自由なんだからそんなことしたって根本的な解決になる訳がないし全然知らない人だから苦情を言われたとか解釈されて逆ギレされても恐い。ひとごとだと思って考えられる中で最悪の手をまあ気軽に打ってくれたね。それで自分たちのできることはやるけどそれで駄目なら泣き寝入りしろと言ってるのと同じに読めるがそういう理解で構わないか、現状どれほどひどい匂いがするか確認しに来たのか、来てないとしたらそれはとても不誠実な態度じゃないのか、大体御社はこちらの言い分を最初から完全に読み間違っている、お隣の人に注意しろなんて言ってないしそんなことしたって問題が解決するはずがない、直にたばこの匂いをなんとかする手立てを講じろと言ってるんだ、現に状況はまったく改善してないじゃないか、御社は何をしてくれたと言うんだ、お手上げなのか?という返事を書いて読み返してみたら我ながらちょっと過激に思えたので送らずに保存だけしといた。「ご不便おかけしております。」とか言ってきてたのでかけられてるのは不便じゃなくて迷惑だとかも書いたな。少ししてとりあえず階段での喫煙は止まったようだったのでしばらく様子を見ていた。二ヶ月くらいかな。でも一週間ほど前の夜ついに部屋の中にも匂いが侵入してきた。いや侵入はすでにしてきてたんだろうけどひときわ強い匂いが感じられた。この期に及んで僕も切れた。メールを取り出し一読してその強烈な破壊力に満足しながら送信した。言ってることにも筋が通ってるし。まあ酔った勢いというのも大きいんだけど。二日間返事はなかった。
 三日目に来た返事には行ってみたらたばこの匂いがすごかった、こちらの言い分を大家さんに伝えて最上階の窓に換気扇を設置するとか出られないように格子を設置した上で窓を開けるとか大家さんに提案したがいずれも却下されたのでまた何か考えて提案することにしたい、追っての連絡を待って欲しいとあった。こいつらの間違ってるところは予めどうこうするというのをこちらに知らせないまま行動しちゃってから事後報告するところなんじゃないかと思う。こういう手立てを講じたいが賛成か反対かと事前にこちらに相談するのが筋なんじゃないだろうか。そしたら昨日ポストに大家さんからの手紙が入っててまずは今回の件で謝りたい、お隣には空気清浄機を渡してあったのだが効果がなかったようだ、格子を設置した上で窓を開ける工事を今週中に行うのでそれで様子を見て欲しいとあった。不動産屋との話し合いの後大家さんは気持ちが変わったと見える。どこまでも役に立たないな不動産屋あ。という訳で一件落着するかしないかは工事が終わった後判断されることになる。