指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

クリスマスコンサートに誘われる。―村上春樹ライブラリー十二回目。

 午前中村上春樹ライブラリーへ。顔見知りのスタッフさんに挨拶して検温してもらい受付をすると今日の入館ナンバーは23。なんとかオーガンジーのカーテンは短くなって再び設置されていた。いつもの席に陣取って「全作品」の後期の七巻を開く。メモ帳を持って行ったので解題から抜き書きをする。

(前略)
 そこに表記されている内容や形式が、フィクションであれ、非フィクションであれ、虚構であれ、事実であれ、少なくともそれが文章を媒介としているものであるかぎり、我々(小説家)はその書物が、読者の心を揺さぶることを第一に求めるし、できることなら読者がその本を読むことによって、物理的に、たとえ数センチであれ、移動することを求める。頭の中で「なるほど、これはこうなんだ」とすらすら腑分けされ、論理的に処理されてしまうことが、我々にとってはいちばん困ることなのだ。そのような書物は頭には残るけれど、心には残らない。
(後略)
村上春樹全作品1990~2000 7」解題より。

 この抜き書きを読んで改めて気づかされるのはこの期に及んでも自分が小説を読むとはどういうことなのか問い続けているという事実だ。ここで作者は小説は頭で理解するものではなく心で―どんな形でか―受け止めるものだと言ってることになると思う。それはおそらく理解しようという意志と言うかはからいと言うかそういうものを超えてひとりでに動かされてしまうという事態を指している。言い換えればひとつの作品を読んでそれは一体なんだったのかと考え始めた瞬間にもう道を踏み外してるということを意味してる気がする。だとすれば個人的には道はまだまだ遠いんだなと思わざるを得ない。あるいはまた小説を読む資格なんてお前にあるのかという自問にもなりかねない。
 それからカルト教団について触れたこんな一節。

(前略)僕はカルト教団というのは、それが設定した独自の物語性の中に不特定多数の人々を引きずり込み、出口をふさいでそこに留め、その上でじわじわと自我を徴収していく、閉鎖的なシステムであると一般的に捉えている。きわめて危険な、あるいはきわめて危険化する可能性に満ちたシステムである。その物語性が閉鎖的なシステムの中で完結しているが故に、それは簡単に臨界点に達してしまうからだ。その信者たちは、そこにおいては言うなれば自発的な虜囚であるわけだが、その完結性の危うさに気づくものはきわめて少ない。なぜならその完結性こそが、彼らの求めているものだからだ。
 そのような物語のインスタント完結性に対抗できるものは、論理ではなく、知識でも道徳でもなく、「べつの物語性」でしかないと考えている。べつの「解放された」物語性だ。簡単に言い換えてしまえば、それは物語の「開放系」と「閉鎖系」とのあいだの闘いなのだ。(中略)我々の社会が人々に対してどのように有効な生きた社会的物語を提示できるか、という問題がひとつの大筋としてそこにあるわけだが、小説家という立場から見てみれば、それは「小説家が読者に対してどのように有効な、生きた物語を提示できるか」ということにもなってくる。そしてその「有効な物語性」という命題は、これからの文学にとって、重要な主題のひとつになってくるのではないだろうか。もし現代の文学がある種の袋小路にはまりこんでしまっているとすれば(僕はとくにそのようには考えないのだが、そういう意見は世間に根強くある)、そのような主題はひとつの突破口になり得るのではあるまいか。
(後略)
前掲書より。

 閉鎖系の物語に開放系の物語を対峙させ後者に前者を解体させることによって危険を回避するという構図はとてもわかりやすい。有効なのは一枚岩の論理でも知識でも倫理でもなく物語の有機性ということなんだろうと思う。これはひとりカルト教団への対抗策となるばかりでなくたとえば人を自死や犯罪やその他あらゆる不幸から救う回路を開くことにもつながる気がする。ある物語を知ってふっと気が楽になったりすることってあるから。
 あと二箇所抜き書きをしてきたんだけど長くなるのでそれは近いうちに引用したい。
 読み終えてからまた地下のカフェでジンジャーエールを飲んで―この前に続いてコルトレーンの演奏らしき「My Favorite Things」がかかってた。―一階に上がり受付でカードを返した後顔見知りのスタッフさんに挨拶して外へ出た。出るとすぐに呼び止められて振り返ると一時からカフェでクリスマスコンサートがあるのでよかったらと同じスタッフさんに誘われた。そのことはツイッターで見て知ってたのでそう伝え来られたら来ると答えた。仕事もあって今日は無理だったけど明日も行われるということなので行ければ行きたい。