指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

人生をたぶんちょっと変えたローファー。

 そのリーガルの黒いローファーを買ったのはたぶん1994年アイルトン・セナの亡くなった年だったんじゃないかと思う。二万円弱だったような気がする。もう二十八年前のことだ。そのローファーを履いて渋谷のパルコ・パート1から渋谷駅に向かう緩い坂を下ってるときに足を滑らせた。その瞬間大腿骨の下にある軟骨の一部が剥離してひざの間に挟まってしまった。と説明されたのは後からのことでそのときはただ激痛にうめいていた。痛みでほとんど歩けなかったのでそこからタクシーに乗って帰社した。帰宅したのもタクシーでだったと思う。もう暮れも押し迫った頃で一日二日会社を休めば正月休みに入るのでちょっとひとりで暮らせる状態に思えなかった(食べものを調達することすら難しい。)こともあってそのまま帰省した。それで年が変わって地元の大きな病院で診てもらったら手術が必要ということになり1995年1月17日阪神淡路大震災のあった日に手術した。この辺のことは前にも書いたことがある気がする。それから二ヶ月ばかり入院した後しばらく自宅療養になった。外回りの最中の怪我だったので労災が適用されて会社にもそれほどの迷惑はかけなかった。ただ社長はこの機会に僕にパソコンを習わせようと考え自宅まで富士通FM-Townsを送って来た。それがパソコンを始めるきっかけだった。仕事に復帰してしばらくするとやはり社長の考えで会社にインターネットを引く役を任されつながると今度はサイトを立ち上げろという話になった。それで1997年の奇しくも1月17日に会社のサイトを立ち上げた。そしてその延長線上に今の家人がいた。彼女とはInfowebという富士通系のプロバイダが無料で提供していたウェブサイトを持てるサービスを通して知り合った。つまり彼女と知り合うにはInfowebに加入してなければならなかったしそのInfowebを選ぶには富士通の長いファンである社長がいなければならなかったしまた僕が怪我をして会社のパソコン担当になっていなければならなかったしそのためにはあの日渋谷で怪我をしなければならなかったし怪我をするためにはそのリーガルの黒いローファーを履いていなければならなかった。だから元を正せばそのローファーが家人と出会うきっかけだったと言って言えなくもない。今でも割に本気でそう思っている。だから怪我のきっかけになったとしても僕はそのローファーを手放さなかった。もう二十年以上履いてなかったけれども。
 それが今日子供のものになった。試験監督のバイトにスーツとちゃんとした靴が必要ということでその古いローファーのことを思い出した。箱から出して包んであった新聞紙をはがすとしまう前に磨いてあったのだろうぴかぴかのローファーが現れる。普段は五ミリくらい子供のサイズの方が大きいんだけどこの靴はややゆったり目だったからか長い間にシューキーパーがサイズをわずかに広げたのかぴったりだと言う。ちゃんとした靴も一足くらい持ってないとまずい年だと思ったしちょうどいいのであげることにした訳だ。それがなければ家人と出会うこともなかったはずのローファーが家人と出会わなければ生まれるはずのなかった子供に引き継がれる。なんだかちょっと不思議な気もするしお話としては出来過ぎな気もする。いずれにせよこのお話には長い時間がかかったしまだこれでおしまいではないのかも知れない。