遅まきながらカズオ・イシグロの「クララとお日さま」を読んだ。すごく心動かされる作品だった。少なくともしばらくの間は折りにつけクララのことを思い出すに違いない。ラストシーンはあまりにかわいそうで泣いた。
出版から一年以上経ってるのであまり配慮の必要がなくなってるかも知れないけどもしもネタバレはしたくないと思うなら書けることはそう多くない。だからこの文体が実現されるにはどんな条件が必要かというあまり当たり障りのないあたりを書いておきたい。この作品がクララの一人称の語りという体裁で書かれていることはひとまず間違いないと思われる。しかも自分が経験したことをリアルタイムに記述してるように読める。クララが「いま」と言うときそれは今正に経験してることをリアルタイムで記録していることを意味している。そういう文体はどうすれば可能か。いろいろな想定ができるかも知れないけど僕が思いついたのは経験すると同時に自分の思惟を言語化しそれを瞬時に記録する方法があるなら可能じゃないかということだった。つまりクララは目の前で起きつつあることを即座に言語化し同時に脳内の―あるいはクラウドという概念を引き入れるならリモートのどこかにある―記憶媒体に書き込んでいるのではないかということだ。少なくとも紙にペンで書き付けるとかキーボードを打ってハードディスクに保存するとかいうときに生じるタイムラグはクララの経験と記述との間にはないと考えた方がいい気がする。もちろん回想するときには回想される場面と現在記述している時制の間には差がある。でもその場合でも回想という行為をなしている今この瞬間と記述という行為の間には時間的な差はないように感じられる。そしてそれは作者が意図的にそうしたものとしか考えようがない。つまり作者はある目的意識に従ってこの文体を採用しそれによって何かを実現したかったということになる。では一体何を実現したかったのか。
でもこの考えはそれより先へ進んで行かない。作者がこの独自の文体を使った理由は必ずどこかにあるはずだ。でも具体的な目的がよくわからない。ただラストシーンを読んでいてかなり強烈に浮かんできた疑問がひとつある。このお話はすべてクララの頭の中でだけ起こったことなんじゃないか。言ってみればクララの見た長い夢を記述したものなんじゃないかという疑問だ。夢の中ではすべてがリアルタイムに感じられるしその感触を伝えたいがためにこの文体が必要だったと考えると少しだけ腑に落ちる感じはする。ただしこう考えるにはこの作品中にはないある予備知識の助けを借りる必要がある。その予備知識とは作者がこれまでのいくつかの作品で記憶のあり方ということを重要なテーマにしてきたということだ。今回そのテーマに触れたように読めるのはクララが記憶の混濁を告白するほんの数行だけだ(と思う)。この作品がもっと大がかりなスケールで記憶をテーマにしているとしたらこのお話をクララの記憶の中にだけ存在するものと見なしたとしてもあながち牽強付会とも言い切れないかも知れない。アンドロイドは電気羊の夢を見るか?見る、というのが作者の解答なのかも知れない。イシグロの作品はどれも好きだけど今のところいちばん動かされたのはこの作品だと言っていい。未読の方は読まないともったいないかもです。