指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

諏訪哲史さんの新刊を読み終える。

 作者は何かをとことんまで突き詰めずにはいられないひと言で言うなら凝り性な人なんだろうなという気がする。思い起こせば「アサッテの人」の語り手のおじさんの造形からしてそうだった。本書でもその凝り具合はいかんなく発揮されている。暗闇に始まり暗闇へと戻って行く人生のあり方の描写として。酷寒の舞台で展開されるひとりの若者の内面の劇として。一軒の貸本屋を営む貸本業兼貸本執筆者の「おじさん」にまつわる(おそらくは)偽史として。そこに見られるある種の徹底ぶりはときにファンタジックな色彩を帯びフィクションを読む楽しさを存分に味わうことができる。と言うと僕の知る限りではスティーブン・ミルハウザー三崎亜記さんを思わせるけど彼らともまた異なっている。彼らは言わばアイディアの連続で読ませる。それに比べるとこの作者はもっとずっとストイックな何かを隠し持ってるように感じられる。それは三作目の「貸本屋うずら堂」のように言葉の響きがユーモラスな方向へ開かれているような作品のときでさえ何かが律儀に遵守されている印象をつくり出す。その何かとは僕の手にかなう言葉で言うならやはり文体ということになると思う。言わば物語よりも語り口の方が大切にされている―と言うと言いすぎかも知れないけど―ような気がする。あるいはそれらが最低でも等価と言うべきか。それがこれらの作品に共通する独特な雰囲気を醸し出してるように思われる。
 昨日とほぼ同じような一日。バイトはグレートマザーまーさんと群れるのを嫌うサコちゃんと一緒だったのでとてもやりやすかった。デタさんの件でまーさんがあれからどうなったと尋ねるのでオックスには断りを入れてひとりでお線香買ってお渡ししましたと答える。すると今回のオックスのとりまとめにはまーさんも完全には納得がいってる訳じゃないようでこういうことは今後しないようにしようと思うと言う。僕としてはそれもまた違うのかなと思わないでもないのは他のバイトの慶事やご不幸のときに何をするかしないかというのを等し並みに考える必要はないんじゃないかと思うからだ。たとえばたいていの学生バイトに対しては何があろうと何もしないと思う。でもうっちゃんにはご結婚のときもご出産のときもささやかなお祝いをお贈りした。僕は彼女にある種の好意を持ってるからだ。今回もデタさんという人に個人的な好意を持ってるから何かしたいと思っただけのことだ。そこのところの考え方がまーさんとは違う気がする。もちろんどう考えようがそんなこたあその人の自由なんだけれども。
 今日のスイムは25分01秒で千となかなかの健闘ぶり。でも思ったほどきつくなくてそれは割合うれしい。