最近YAHOO!のトップページを見ると薬かなんかのCMで「泥のように眠れる」というコピーを目にする。きっとすごくよく眠れるということを言ってるんじゃないかと思う。でも「泥のように眠る」というのは睡眠の質云々よりもそれほど疲れてるということを強調するための表現なんじゃないかという気がする。たとえば家人がうちの子を指して「泥のように眠ってるよ。」と言ったとしたらそんなに疲れてかわいそうにとは思うけどぐっすり眠っててよかったとは思わない。要するに「泥のように眠る」というのはあまりプラスのイメージを持たずどちらかと言えばマイナスのイメージになるのでそういうキャッチコピーには適さないんじゃないかということだ。もしもよく眠れるというプラスのイメージで使ってるんだとしたらそれは誤用に近い気がする。この前の「おむつが取れる」という表現と同じで語のありのままの意味だけに頼って使うと間違ってしまう言葉というのはある。たとえば英語でNature is calling.と言うとそれはお手洗いに行きたいという意味になったと思う。これを元々の字義だけで「自然が呼んでいる」ととってもたいていの場合たぶん意味をなさない。言葉によっては単なる字義以上の慣用的な意味を身にまとってることがあるのでそこまで配慮して使うべきなんじゃないかなというのがここでの言いたいことだ。でももちろん言語というのはどんどん変わって行く可塑的な一面も持つ。「見られる」「食べられる」を「見れる」「食べれる」と言ういわゆる「ら抜き言葉」はすでに随分以前から市民権を得てると思う。同様な例で割に長いこと気になってるのは「みたく」という言い方だ。「あの人みたくなりたい」とかいう風に使う。これは普通の文法からすれば誤用ということになる。ここからは職業柄しておきたい文法的な話になるのでご興味のない方は読み飛ばしていただいて構わない。(まあそれを言い始めたらこのブログごと読み飛ばしていただいても別に全然構わないんだけど。)「みたく」は用言に連なる連用形のように見える。すると言い切りの形つまり終止形は「みたい」になるのかと言うと実は「みたく」も「みたい」も従来の日本語には存在しない言葉だ。「みたく」の本当の終止形は「みたいだ」になる。「だ」で終わる。つまり形容動詞だ。形容動詞の活用は誰もが一度は覚えたように「だろだっでぇにぃだぁなぁなら」。連用形は「に」になる。だから「あの人みたくなりたい」は本来「あの人みたいになりたい」が正しい。ではどうして「みたく」が生まれてしまったのか。これは「みたいだ」が「みたい」+「だ」に分離されてしまい「みたい」だけでひとつの単語であるかのように錯視された結果と見なすことができる。確かに「それって間違いみたいだ」は最後の「だ」を省略して「それって間違いみたい」まで言えば通じてしまう。それがさらに本来形容動詞である「みたいだ」を「い」で終わる言葉すなわち形容詞としての「みたい」と錯視する事態を招き寄せた。「い」で終わるから形容詞という風にことさら文法を意識していなくともたとえば「美しい」の連用形が「美しく」なんだから「みたい」の連用形は「みたく」になるだろうという類推は容易だ。形容詞の活用はこれまた誰もが暗記したことのあるあの「かろかっくぅいぃいぃけれ」。連用形は「く」で終わる。これが「みたく」の誕生までの道のりと想像される。とここまで結構苦労して書いて来ても最終的な結論はだからなんなんだということになるだろう。特になんでもない。あえて言えばそんな風に言語というのは自然に変化して行くというだけのことだ。スイスの言語学者フェルディナン・ド・ソシュールはひとつの言語のスタティックな構造体「ラング」を実際の言語活動であるドラスティックな「パロール」が徐々に改変し更新して行く様を思い描いていた。「みたく」の誕生はパロールがラングを更新する正にその瞬間と見なすことができるかも知れない。ソシュールに著書はなくお弟子さんがその講義をまとめた「一般言語学講義」という本が残されてるがその内容にはかなりの誤解が含まれてるんじゃないかと故丸山圭三郎さんは指摘している。その誤解を丁寧に洗い落としてソシュールの実像に迫ろうとする労作「ソシュールの思想」が岩波書店から出てる。いや今調べたら出てたと言うべきかも知れない。アマゾンではユーズドしか手に入らないようだから。すごくおもしろくて若い頃に三回くらい読んだ。図書館なんかにもあると思うのでご興味がおありの方は是非。