この本の中で町田さんが本音の言葉と建前の言葉という言い方をしてるものが僕には自分の言葉と東京の言葉と置き換えられる気がした。町田さんもうすうすそう思いながらそういう言い方を避けてるのかも知れないけど建前の言葉とは東京の言葉を指してるんじゃないかと思う。町田さんは僕より一学年上だ。だからこの本に書かれている時代背景はほぼ僕が通ってきたものと変わらない。でも町田さんと僕にはたぶんほとんど接点がないと言い切れるほどの違いがある。それは東京の言葉に対して自分の言葉を優位に置いたか置かなかったかという違いに根拠がある気がする。前者が町田さんで後者が僕ということになる。ざっくり言うと大坂の言葉は東京の言葉に拮抗しうるほどの強度を持ってるのに対し僕が生まれ育った北関東の言葉はそれほどの強さを持たないということになるんじゃないかと思う。元々の自分の言葉に力がなかったからこそ僕はひたすら東京の言葉に憧れたし町田さんは反対に東京の言葉に違和感を持ったということのような気がする。別の章で触れられてるように町田さんが「偏屈」というアイデンティティーですべてを乗り切ろうとするのも本当は大阪を東京に対峙させつつあくまでも大阪を手放そうとしないというただそれだけのこだわりなんじゃないか。この本は講演録のようで執拗に大阪弁が使われているけどそれもまたここまでの論旨を補強してるように思えてならない。栃木弁とか群馬弁とかわずかにあるけど僕はそんなもん絶対に使いたくないもんね。そういうところが町田さんと僕では決定的に違う。