呉智英さんのお名前を僕はずっとゴチエーさんだと思ってた。なんか漫画の評論かなんかなさってる方だという頭だけあってたぶん一度も読んだことがなかったんじゃないかと思う。ほんとはくれともふささんとお読みするらしい。今回は吉本隆明さんについて書かれた本らしいので読んでみることにした。
この本によると吉本さんのお仕事並びに人気のピークは六十年代から七十年代くらいだということになる。自分を遅れてきた吉本信者だと見なす由縁だ。僕が吉本さんを読み始めたのは大学に入ってからだから八十年代半ばまで下らなければならない。なのでいくつかの例外を除けば吉本さんで読んだことのある著作はそれ以降の新刊に限られる。まあそれだけでも結構夥しい冊数ではある。ただそういう訳なのでこの本で取り上げられている作品のほとんどは読んだことがない。「マチウ書試論」も「擬制の終焉」も「藝術的抵抗と挫折」も「抒情の論理」もそれどころか主著と思われる「言語にとって美とはなにか」も「共同幻想論」も読んでない。ただし最後の二冊についてはさすがに読んどかなきゃまずいだろと思って買うには買った。でも何度トライしても結局一度も読み通せないまま今に至っている。僕が読んだのは「増補 最後の親鸞」であり「重層的な非決定へ」であり漱石や太宰や宮沢賢治や村上春樹さんなんかに関する評論であり「マス・イメージ論」や「ハイ・イメージ論」といった比較的最近の状況論などだ。それでも呉さんの吉本さんに対する違和感と言うか批判と言うかその骨子はわかるように書かれている。要するに吉本さんは一貫した民主主義原理主義者でありどんなときでも大衆の側に着こうとし続けまた大衆に対する啓蒙には頑なに批判的だったということになると思う。大衆の側に着こうとし続けというところも字義通りとればヒロイックに見えるかも知れない。でも呉さんによればその「大衆」という言葉がときによってブレているために批判の対象となり得るということだと思う。その吉本さんがどうして「戦後最大の思想家」という一種のカリスマ性を身につけたのか。論考はそこまで及んでいる。
この本に対して確かにそういう面は否めないかも知れないという態度に出ることもできるしだからなんなんだと開き直ることもできそうな気がする。たとえば「最後の親鸞」が思想史的には大した価値を持たなかったとしても僕にとってはそうではないからだ。この本を読んでたくさんの吉本さんの本をその難解さにもめげずに読んできた読者が自分の努力は一体なんだったんだと言ったというような話が文庫版にのみ収録されてる「補論」にある。でも呉さんが価値がないと言ったからと言って吉本さんを読んできた体験のすべてが無に帰すといった単純な話でもないと思う。そんな風に僕は考えている。
今日は元バイト仲間のサコちゃんが塾にやって来てたっぷり二時間話をした。そんなことだろうと思っていたけどやっぱり自分のことしか考えてないバイト仲間「んぶちゃん」が耐えられなくなったということらしい。確かに彼女が入って来てからもう少しさかのぼれば自称「イケオジ」のオックスが入って来てからバイト同士の距離感がなんだか変ではある。僕はもう年齢的に言ってそういうの無視することができるけどサコちゃんはまだ若くてそうでなくてもナイーヴな女の子だしまともに喰らっちゃったということになりそうだ。ラインでつながってるのでまた連絡する機会もあるだろう。幸多かれと願っている。
