家人の生まれ育った環境には書物というものを習慣的にたしなむ血縁の者がひとりもいなかった。だから彼女は小説を読んでもコミックスを読んでもそれについて誰かと語り合うという体験をしたことがなかった。つまり自分が読んだものの感想とか受けた印象とかをじっと自分の胸の内に秘めておくしかなかった。おそらく彼女はそうした事態をしごく当たり前のものとして受け容れていたんだろう。幼い日々から若い日々にかけてそのことがもたらす孤独感に彼女はじっとうつむいてひとりで耐えてきた。その姿を想像すると僕は今でも胸が痛む思いがする。そしてせめて今は自分がそばにいてやれてよかったと思う。家人と僕とでは読む本がほぼ完璧にかぶらないけどそれでも自分では読んだことのないたとえば小野不由美さんの「十二国記」に対する彼女の感想に耳を傾けることはできるからだ。僕の育った環境はどうだったかと言うと母親は割に本を読んでた記憶がある。でも本の感想を話すということはなかったんじゃないかという気がする。いちばん読書量が豊富だった大学生の頃も友だちとの会話では意識して本には触れないようにしていた。話が合わないからだ。いちばん初めの彼女は僕のすすめで村上春樹さんの作品を読むようにはなったもののそれに関して話をしたという記憶はまったくない。本というのはひとりで読むものでありそこから受け取ったものはよくも悪くもひとりで抱え込まなければならない。わかり合えない孤独感より誰にも何も期待しない孤独感の方がまだ耐えやすいように思われた。少なくとも僕にとっては。だから意図してかどうかは別にして読書に関しては家人と僕で似たような道を歩んで来たことになるんじゃないかと思う。
それに比べてうちの子は幸せだと家人は言う。最近もりもり本を読破しまくってる子供だが一冊一冊の感想や疑問を熱心に家人に伝えるんだそうだ。家人の方では自分がそうした環境で育って来た経験があるのでなるべくそれに耳を傾け気づいたことがあれば意見を言うようにしている。つまり子供はひとりで抱え込む必要がまったくないことになる。おまけに聞いてくれるのはプロの小説家と来ている。確かにそれは家人にも僕にも与えられなかった幸せな事態かも知れない。まあこれまでそこそこ本を読んできた両親がいるんだからそれを利用しない手はない。それと読みたい本があれば買ったり借りたりする前に一応タイトルを教えてくれるといいかも知れない。この前も綿矢りささんの本を買ってきてたけどそれうちにあるから。それどころか君の名前を書いていただいた綿矢さんのサイン本もあるよ。今思い出したんだけど。