村上春樹さんの古いエッセイに気づかいというのは気をつかってることを相手に気づかせずにやらなければいけないんだという一節があったと思う。これは年を経る毎にしみじみとわかってくる含蓄に富んだ言葉のような気がする。言い方を変えると気づかいというのはさりげなさとセットになってこそ初めてその価値が生まれるということになる。気をつかわれてるなと相手に思われたら駄目だということだ。どうしてかと問われると答えるのが大変難しい。寄付とか善行とかいわゆる正しい行いは誰にも知られずにやるべきだというのと似てるかも知れない。よい行いをしてるときはそれと同じくらい悪いことをしてる気持ちでやれと吉本隆明さんは言ってる。つまり自分はよいことをしてるという意識やアイデンティファイの仕方は人から評価してもらえるとか神さまが見ててくれるとかいう打算のようなものを含む分だけ醜いものになってしまうということで大体間違ってないんじゃないかと思う。親鸞ならそれを計らいと呼んで否定するだろう。同じような意味で気づかいも相手に喜んでもらおうとかひいては自分に好意を持ってもらおうとかそういう打算を含んではいけないということになるのかな。まあそれでもいいんだけど村上さんが言ってるのはそれとはちょっと違う気もする。もっと単純に気をつかわれてると相手に気づかれることは相手にも気をつかわせてしまうことになるからそれくらいなら初めから気なんかつかわない方がいい。ただしまったく相手に気づかれずにこちらが気をつかうことができるなら相手にどんな負荷もかけないからそういう気づかいならやってもいいというくらいでいいんじゃないかと思う。いずれにせよ気づかいというのは完全な自己満足であるときその真の姿を取り戻すことになるような気がする。別の言い方をするとこれやってあげても気づいてももらえないだろうしもちろん評価なんかしてもらえないだろうけど自分がそうしたいからやってあげよう。というあたりに気づかいの本質があるんじゃないかと思う。育児に関する親の気持ちに近いかも知れない。
なんでこんなことを急に書き始めたかと言うと今日バイト中に誰にも気づかれないパーフェクトに近い気のつかい方ができてひとり悦に入ったからだ。あと書き忘れたけど気をつかうべきスポットがわかるという見極めの力も必要だよね。