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(前略)
おれの乏しい知見の範囲でいえば、この本を読まずに現在の世界の思想を語るのは、どんな立場にしろ、読まない方がモグリだといえるのは、現存している思想では、M・フーコーの『言葉と物』だけだとおもう。柄谷行人を読まなくても、おれの本を読まなくても、小林秀雄の本を読まなくても、現在の世界の思想は、何不自由なく結構やっていけるさ。
(後略)
「情況への発言 中休みのうちに」
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初めて買った吉本隆明さんの本がこの「重層的な非決定へ」だったと記憶してる。たぶん二十代の初めですごく影響を受けたはずだった。はずだったと言うのはこの本をきっかけに遅れて来た吉本信者になっちゃったのにどうしてそうなったのかあまりよく覚えてなかったからだ。今回家の本棚に背表紙が見えてるのに取り出すと部屋を埃まみれにしそうなので図書館で借りてとりあえず最初から最後まで通読してみたのはこの本のどこに惹かれたのか今さらながら確かめてみたくなったからだ。そしたら驚いたことにこの本のかなりの部分を実は読んでなかった。読んだ覚えがあるのは吉本・埴谷(「死霊」が代表作の埴谷雄高さん)論争に吉本さん側から触れたⅠの二百ページ弱とテレビや映画などの情況論を集めたⅡの百ページちょっととそれから批評と言うよりは随筆に近い軽い読み応えのⅤの三十ページくらい。本格的な作家(詩人や歌人も含めて)論を含むⅢと書評を集めたⅣを合わせた二百六十ページほどはほぼまったく読んでなかった。つまり全体の半分近くは読んでなかったことになる。今回はそこにもひと通り目を通してみた。それで気づいたのは作家論と書評については何を言ってるのかほとんど理解できないということだった。もちろん取り上げられた対象の作家なり作品なりを読んだことがないこともあるけどたとえば一時期熱心に読んでた中上健次さんに関する論考もかなり難解に思えた。つまり理解できないところはすっ飛ばし理解可能なところだけを切り抜いてこの本を読んでたことになると思う。それでもそこにある文体や倫理のあり方は今も自分を惹きつける力を持ってることに改めて気づかされた。最初の引用部がそうだし次の引用部なんかも同じだ。
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(前略)
「重層的な非決定」とはどういうことを意味するのでしょう?平たくいえば「現在」の多層的に重なった文化と観念の様態にたいして、どこかに重心を置くことを否定して、層ごとにおなじ重量で、非決定的に対応するということです。私はしばしばそれを『資本論』と『窓ぎわのトットちゃん』とを同じ水準で、まったくおなじ文体と言語で論ずべきだという云い方で述べてきました。貴方(埴谷雄高ー引用者註)は気づいていないふりをして、都合のいい個処を都合のいいようにこじつけるために、私のファッションについての短文を引用していますが、私が「アンアン」に書いたファッションについての短い文章は、柳田国男を論じている文章にくらべて力を落として書いているということは、まったく無いはずです。それは「重層的な非決定」が「現在」に対応する私の理念的な態度だからです。
(後略)
「重層的な非決定へ 埴谷雄高の「苦言」への批判 4」
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この引用部に目を見開かされた衝撃を今回久々に思い出した。この倫理のあり方とこの文体とが吉本隆明さんへの急旋回を促す根拠となったのだった。と言うのはこの本読むまで僕はどっちか言うと埴谷さんのファンだったから。
もうひとつだけ個人的にこの本に共感した理由を挙げておきたい。もう随分昔のことになるけどアーケード版のゲーム機で「ニューヨーク・ニューヨーク」というのがあった。自由の女神の上方から急降下してくるUFOを撃ち落とすゲームで音楽がすごく魅力的で惹かれた。そしたら吉本さんもやはりそのゲームの音楽に惹かれたということだった。そんな細かいところで一致するなんて光栄だと思ったことを今でもよく覚えている。
今日は一ヶ月ちょっとぶりで泳いだ。八百メートルだけだったけど明日からも泳ぎ続けるつもりでいる。
