今日買い物に行ったとき通りがかったガソリンスタンドに「あたらしい新車選び」と書かれた看板があるのに気づいた。一瞬あたらしい新車?と思った。あたらしい新車があるならあたらしくない新車ってのもあるのか?でもあたらしいが修飾してるのは新車ではなく選びなんだろうなとすぐに考え直した。あたらしいという言葉は形容詞である以上新車をも修飾しうる。形容詞覚えてらっしゃいますか。形としては終止形が「い」で終わってはたらきとしては名詞を修飾したり述語になったりするのが形容詞です。たとえば美しいとか寒いとかうれしいとか。だから「あたらしい新車選び」という文字列を見ればまずは近場にある新車があたらしいの修飾する対象なんじゃないかと考えるのはごく普通のことだ。でもそれでは意味がおかしいので新車じゃなく選びを修飾してるんだろうと途中で解釈を変えることになる。ただそういう頭の使い方を読む側にさせてはいけないんじゃないかと個人的には思ってる。純粋に無駄な作業だしもっと長い文章の中にこういう言葉がいくつも混じってたら読むテンポに停滞を生じさせかねないからだ。もっと誤解のないようにすっきり書く責任が書く側にはある気がする。少なくとも僕は自分の書く文章からこういう小さな停滞をできる限り減らそうと心がけてるつもりだ。あたらしい新車選びだったら新車のあたらしい選びと語順を入れ替えそれでは意味が通じにくくなってしまうので最後に「方」を添えて新車のあたらしい選び方とする。これならあたらしいが新車を修飾する可能性をほぼゼロにできるし言葉の響きもそう悪くない。表現としてはやや回りくどくなった気もするけど誤解の余地を残したままよりは余程マシだ。こういう語順の入れ替えは文章を仕上げるときに割に日常的にやってる。これを注意深くやるだけで随分読みやすい文章にできるというのがこれまでの経験から得た実感だ。そして僕はこの作業が心の底から好きだ。すごく楽しい。これほど時間を忘れて没頭できる作業は今の日常では他にないんじゃないかと思う。と言うと小説家である家人からは変態呼ばわりされることになる。でもいつも言ってるように彼女のは仕事で僕のは純粋な楽しみなんだから自分にとっての位置づけがそれぞれで異なってくるのはこれはしかたないことなんじゃないかと思う。と同時に僕も若い頃は小説家を志してたけどならなくて(なれなくて?)本当によかったなという気もしてくる。仕事にしてたら文章をああでもないこうでもないといじくり回すことをこんなに楽しめなかったかも知れない。いやまんざら負け惜しみでもなくて割に本気でそう思ってる。だって小説家ってマジで大変そうなんだもん。