指栞(ゆびしおり)

前にも書いたかも知れないけど。

戦う。

 一昨日の塾で中二の女の子が先生愚痴っていいですかと言うのでいいよどうしたのと尋ねると母親とちょっともめてると言う。なんでも彼女はもう十年以上英会話を習ってて母親はそれを続けて欲しがってるらしいんだけど当の本人は辞めたいんだそうだ。実は十年以上通ってるのはひとつの英会話教室という訳じゃなくて割に何度も転塾を繰り返してる。そのきっかけというのがたとえば初めグループレッスンだったのがだんだん生徒さんが少なくなって彼女ひとりだけになってしまったりすると個別指導ということで受講料が上がる。そしてそうなると彼女の言をそのまま借りれば「うちの親はケチだから」もっと安い教室へ代えてしまったりするんだそうだ。そんなこんなでもういくつもの英会話教室を点々としてるらしい。でも彼女としてはひとところに腰を落ち着け慣れ親しんだ先生に就いて学びたいらしい。ただそうした彼女の希望が考慮されることはなくいつも母親の独断で転塾になるので行くのがいやになってしまったと言う。もちろん問題の本質は転塾にあるのではなく母親が彼女の意向を無視して自分の方針を押しつける点にある。転塾は母親の横暴に彼女が気づくきっかけになったに過ぎない。その上続けるか辞めるかはあなた自身が決めればいいとか言っときながら続けて欲しいのがありありと伝わって来るという母親の自己欺瞞にも彼女は鋭く気づいていた。おまけにそれを指摘すると母親は切れるらしい。そういうのって厳しいよね子供の立場からすると。僕にもよくよく身に覚えがあるのでわかりすぎるほどわかる。だからでもねえ親ってのはそういうもんなんだよと切り出してみた。本音と建て前があってそれを指摘されると無視するか怒り出す。うちの親もそうだったよ。君がお母さんのそういうところに気づいたのは君が少しずつ大人になって君の「自分」がしっかりできてきたってことなんだ。今まで絶対だったお母さんも実は間違ったり嘘をついたりするただの普通の人なんだって思えてきた訳だ。でそうなったらどうすればいいかと言うと戦うしかないんだよ。要はどこまでも諦めずに話し合いを続けることだね。そのときに先方が感情的になったら自分の勝ちだと考えるといい。まあ勝ったとしても得るものは何もないんだけどさ。ただ君がせっかくその存在に気づき始めた「自分」を守りたいなら辛抱強く話し合うしかない。僕の場合は結局親とはこれ以上一緒に暮らせないと判断して高校出てからひとり暮らし始めちゃったけどね。君はまだ中学生だからそういう訳には行かない。だから親元を離れることができる日まで自分の身は自分で守らなくちゃならない。試しに今度お母さんに聞いてごらん。お母さんは子供のためって言うけどそれって結局は親の都合ってことなんじゃないのって。僕はそれについてはものすごく長いこと真剣に考えたんだけど子供からそう言われたら親はそれを否定することができないんだよほんとは。君がそう尋ねてお母さんが確かにその通りだ申し訳なかったって答えたら君のお母さんは大したもんだと思うね。という訳でうちの場合は自分の子にお前のためだからなんて言ったことは一度もない。彼の気に染まない習い事をやらせたことも一度もない。水泳習ってたけど幼稚園のプールが楽しかったのがきっかけで自分から行きたがったから習わせたんだし公文にも通ってたけどそれも友だちが通ってるから一緒に通いたいって言うので行かせた。習い事に限らず子供の思いを無視して親が勝手に何か重要なことを決めたことはない。それは「子供のため」の振りをした「親の都合」かも知れないから。つまり単なる押しつけに過ぎないかも知れないからね。それでもうちの子は勉強が好きで大学出て今大学院に行ってるけどね。そう話すと神妙に耳を傾けてた彼女は小さな声でうらやましいなと言った。でも僕たちは―家人と僕は自分たちが親にされてとてもいやだったことを子供にはしないという原則を立ててそれをただ忠実に守っただけなんだよ。と声に出さずに思う。そしてそれは全然難しいことなんかじゃない。とても簡単なことだ。どうして誰もがそうしないのか不思議になるくらいに。